長く悲しい内容の事と思います、気分の乗られない方は、素通りされて下さいませ。


毎年5月下旬、義母の命日の頃に、リラの花も咲きおわります。

白いリラは彼女の一番のお気に入りの花でした。


白いリラの花を見ると、最期を自宅で迎えた義母の棺に、庭に咲いていた白リラを、

真っ赤な目をしながら、義弟が入れていたのを思い出します。


yanokoのブログ




私が主人と出会った当時、彼は自分の母のことを色々語ってくれました。



写真の校正家としてのお仕事をしていた義母。

今ではコンピューターでの作業も、全て手作業であり、

例えば、家族の記念撮影後、離婚などにより家族編成に変更があった場合、

この人物を写真から消し去る事も可能であった事。



結婚後6人の男の子に恵まれ、仕事の方は残念ながら継続できなかった事。



少女時代から修道院に入るのが密かな夢であった義母、

義父と結婚する事に決まった折の周囲の驚き様。



あまりにも繊細過ぎて、人間通しの争い、映画の壮絶、強烈なシーンなどは、

避けて通らないと、気絶にまで至ってしまう事。





この様に聞いていたため、初めて義母に会う事になった折の緊張感、

又その時の挨拶、洋服の感じ等全て、未だにクッキリと私の脳裏には刻まれております。



義母は私が出会った折には既に、癌との重い闘病生活中でした。



最初に乳癌が発見された時、すでに相当に進行していたらしく、

即刻行われた大手術後は、生死を彷徨う程の物だったそうです。



この時の逸話を、義父母は良く私にも話してくれました。



手術後、このまま意識が戻らなければ、覚悟を決めるようにとドクターに言われ、

咄嗟の思い付きで「今朝はね、家の鶏の卵を五つ見つけたよ」と話しかけた義父。

この言葉に反応し、微笑みながら目を開けたという義母。



主人と私の結婚後も、入退院を何度か繰り返していた義母。

男性ばかりの家に、私も時々、食事作りのお手伝いに行っておりましたが、


病院での義母との面会を終えて帰ってくる義父は、私によくこう伝えておりました。

「今は家のあの野菜の収穫時だから、それを使って調理するようにと言っていたよ」


入院中も、義母は家族の食事の心配をし、メニューまで考えていた訳ですが、

同時にこれが彼女に勇気を与えていたに違いありません。



主人の実家では果物の木々はもちろんの事、

野菜類も日常的なものは殆ど、自家菜園で賄っておりました。

自分の庭で採れる野菜類、無農薬で、大変健康的であると、よく語っていた義父母。

ただ、都会生活に慣れていた私にとっては、サラダ菜一つ取ってみても、

この大家族のために食卓に出すまでには、本当に長時間掛かりました。

義母はこれを、闘病中も毎日一人で行っていた訳ですから、脱帽です。



病院の癌病棟では、常に絶やさない笑顔と彼女の勇気は、皆のお手本であったという事です。


ヴァイオレンスは全く受け付けられなかった義母でしたが、

たまたま私共が所持していた、小津安二郎監督の映画の(原節子シリーズ)ビデオは、

彼女も大変喜び、何回か一緒に観たものです。


彼女は観終わった後には、「大げさな凶暴性など無しの状況で、人間の様々な感情を表現する物が好き」

と語っており、このような時の彼女の表情はとても優しく輝いておりました。


yanokoのブログ





さて、義母は6人の息子の中ではただ一人、家の主人の結婚を体験した訳ですが、


義父母は、いつ終わりが来るか分からない、彼らの家族としての歩みを熟考していたのでしょうか、

主人と私に非常に重みのあるプレゼントを提案しました。


実は、現在も私の指にはまっている指輪は、義父母の結婚指輪なのです。

彼らの指輪を、私共に合う様に、大きさを調整し、受け継いで欲しいという事だったのです。


その時点では、私は肩に圧し掛かる重圧感も感じてしまいましたし、

結婚を目前に、自分達で選びたいであろう指輪のイメージまで湧いて来てしまい、(若かったのですね)

心底から心を開いては喜べなかった様な気がしております。


でも今は、彼らが私共に託したかった物を素直に受け入れておいて、本当に良かったと思っております。



大変に子供好きだった義母でしたが、残念ながら孫の顔は見れないままとなってしまいました。


彼女の闘病生活は20年前の事でしたから、或いは現在の医療技術の助けを借りていれば

快復可能という点もあったかもしれません。


義母の場合、手の施しようがないと言われてから最期まで、自分の意思により、

自宅で療養しておりました。


鎮痛剤、モルヒネの量がどんどん増えていく中、時々は幻覚症状もあったのでしょうか、

ある時、親戚の者が訪ねてきていた時のこと。


テラスで車椅子に座っていた彼女(もう殆ど動けませんでしたが)、コーヒーを淹れるからと

立ち上がろうとすうるのを皆に止められた後、


私の方を皆に見せる様な素振りをしながら、「この間、spookske が来たのよ」と言ったのです。

Spook(スポーク)とは、フラマン語で幽霊の意味ですが、俗語で赤ちゃん、子供の事を指しているそうです。


義母が亡くなった後も、この言葉に関しては、彼女は何が言いたかったのだろうと、

親戚の間でも話し合われておりました。


私の事を単に愛情を込めてスポークと呼びたかったのか、

或いは彼女の中で、架空の孫の姿が見えていたのか、このどちらかではないかという事でしたが、


私は、どんな時にでも家族、家庭の幸福を最優先して考えていた彼女にとっては、

多分、孫の姿が見えていたのではないかと、思えてなりません。


普段は人物の写真はあまり載せないのですが、

ここでの義母の表情があまりにも純粋なため、特別にご紹介させて下さい。

亡くなる一年ほど前、全身の痛みに耐えながらのフランスアルプスへの最後の旅行でした。


yanokoのブログ