《環境》

学歴を渇望する大人と少年・少女。多くの友達の通う地元の高校に進学できなかった僕の在籍した高校のコースは「受験少年兵養成所」のような場所でした。雨あられのように降り注ぐ課題。部活は入部を制限(部活専門コースがあるため)。毎日の小テスト/毎回の模試の成績が張り出されて競争を煽られる。特定の国立大学や学部に行かなければ、”成功”とみなされない世界観。その証左として、修学旅行とは、東京にある一流大学を訪問して勉強法を質問するというものでした。さらには、私立指定校推薦合格者の生徒がセンター試験の結果で合否の決まる国立大学受験へ駆り出されるほどにその思想は徹底されていました。高校進学時に希望する進路を選択できなかった悔しさもあり、”先生の言う通り”僕は心を無にして通知表にひたすら5を並べ、代ゼミの偏差値表とにらめっこしていました。

 

2年間、始発電車に揺られながら机に向かっているうちに制服のお尻の部分がテカテカしていました。でも、僕は日本の大学受験競争のゲームのルールでは上澄みになれないことを悟りました。なぜなら、数学なら代数分野のパターン網羅とその組み合わせ、及び計算のスピードと正確性に難がありました。英語の読解スピードやリスニングも中途半端でした。さらに言えば、「ゴールから逆算する力 」「必要な情報を色分けする力」「問題の処理パターンの構築」あたりも弱かった。これらは、アルバイト先の代ゼミの先輩・同僚・担当の高校生、フランス/フィリピン語学留学時代の友達と一緒に過ごして言語化されたことです。同時に、高校受験のゲームの方法から脱却できていなかった。大学受験(よりマクロな目で見れば、日本社会)には独自のゲームのルールがある。僕は勉強しなかったことへの後悔はありません。ただ、先生のいうことを素直に聞いてしまい、社会の仕組み(高校が定義する偏差値表とは別に日本を影で牛耳っている学閥、お金の発生する理屈、人格のまともさ等)や自分の適性を無視して過度に勉強してしまったことへの後悔の方がはるかに大きいです。

 

別の言い方をすれば、単に僕の頭が足りなかったというところでもあります。進学校とは次のように分類されるでしょう。(カテゴリーが上位になるほど、スクリーン時の知能水準が上がります。)真の進学校は受験勉強を教えず、知的好奇心を煽る授業をします。次点の進学校は浪人率が50%を超えるような実質4年制文武両道型高校、中高一貫高校2年までに受験範囲を網羅するような高校です。僕の高校はカテゴリー的に3番手なので、上述の極端な感じになるわけです。尚、大学までエスカレーター式の私立付属高校から外部受験をするパターンは捨象してあります。

 

《仕事への影響》

①学びの再定義

よく勘違いされるのですが、僕は「勉強」好きなわけではないということです。本来、僕は次の 3つのことをしたくて学んでいることに気づきました。同じ文脈で、研究者も同様です。

(1)金:4つのゴールを完遂するために必要な「知的武装」が必要だった

 ・女

 ・学歴

 ・住む場所

 ・お世話になった人へGive Backすること

(2)なぜ?と感じたことを「解き明かしたい」

(3)自分にとって生きやすい「社会階層(ここでは進学や就職と定義)」へたどり着くための手段

(4)周りの話を合わせるための「教養」が必要だった

 

②「自分のものさし」を持つこと

「権力」や「そのコミュニティー」が”素晴らしい”と定義するものをどれだけ完璧に満たそうと、必ずしも自分の幸せをもたらさないということを学びました。僕は意図せず組織や権威から課された何かに染まりやすいともいえるかもしれません。

 

前者は「皆それぞれ立場がある」という情報のバイアスを取り除いて考えること、とも言えます。確かに、上司や先生の言う通り全ての科目を頑張ったり資格試験を頑張れば、褒められるし可愛がられるかもしれない。その場にいる限り誰も文句を言わない。でも、そういう考え方は高校までに己の限界までやり尽くし、(数字的に結果の出たものもありましたが)もうやめようと思いました。

 

後者は、自分の外に価値基準が有る限り、ずっと人からの評価に振り回されてしまうからです。そして、評価や当たり前は所属する時代、組織、場所によって変わります。例えば、20年前在籍した小学校では第四銀行へ就職することは大変素晴らしいこととされていました。今や合併している状態ですし、大学時代の就職活動でその名前を聞くことはありませんでした。ましてや、パリで第四銀行を知る人はいなかったです。(もっとも、僕は入行する実力もありませんし、働いている人を貶す意図はありません。)

 

よって、僕は4つのゴールを定めました。これだけは完遂して死ななければならない。俺の目が黒いうちに妥協は許されないものです。正直、馬鹿にされたり後ろ指をさされながら”自分のものさし”を追求するのは、とても辛かった思い出もあります。一方、うまくいった途端、手のひらを返す人間の嫌な部分にも接してきました。”褒められたい”とか”すごい”と言われたいわけではありません。自分のビビッときたものを追求することが周囲から浮かない場所にいたいという気持ちの方が近しいです。実際、日本製紙の人は僕のことを”自分を持った人”だと評していました。高校卒業後、ずっと自分の目指してきたものでもありました。

 

③ゲームを見極める才覚

目標のゲームのルールで自分が結果を出せる蓋然性。正しい努力、報われる努力の言い換え。社会・組織・競争者・自分の能力を俯瞰する力。ゲームの構成要素を分解、自分の立ち位置を把握する力。経験上自分の適性に合っていなければ、どんなに「お金・時間・情報・人」をつぎ込んでも結果はでなかったです。逆に、今組織の社員紹介欄に載っているような人たちはこの辺りの感覚が研ぎ澄まれていました。何か今のゲームのKPIなのか?(前のゲームのKPIは忘れる必要)何のゲームに賭ければ、結果が出る蓋然性が高いのか?

 

僕は失敗は成功のもとではないと学びました。失敗のタイミング・規模・仕方によっては、もう立ち直れないからです。失敗を笑って語っている人の裏には、多くの再起不能になった人がいました。そのストーリーには生存者のバイアスがかかっているわけです。例えば、3 浪後に行方不明になった友人もいます。成功する確率の高い目標設定を選び取る嗅覚がないと、失敗は次の打ち手の判断材料になりえないことを実感しました。

 

④キャリア 観・社風・マネイジメントについて

ピラミッド式に100人の中で1 位を目指す考え方、綺麗に枠の中で生きることを競争することをやめました。

 

よく勘違いされるのは、「常識的でない(肯定派はぶっとんでいる)」というレッテルです。常識というより「みんなと同じことをしなければならない」「価値尺度が1つしかない」「周囲の正解とする幅が狭い」ことへの反発という表現の方が正確です。この文脈で、僕が地元に帰りたくないのは正解が1つしかないからです。

 

また、「上司のいうことをきかない」ということも会社で言われました。(学校と会社という違いはありますが)過去に散々聞きいてその行き着く先を知っているからです。なので、僕は上司のゴマをすって・・・みたいなことは生理的に苦手です。(もちろん、お金をいただいている以上業務はしっかりやるという前提です。)もっとも、上司に可愛がられた方がいろいろと楽なのも事実ですが・・・。

 

同時に、「フリーランス志向」でもないです。僕はフリーランスに憧れている人と話していて、なんか違うな・・・と思いました。たぶん僕は組織に居場所を求めながらも、自分でルールでやりたいのだと思います。より現実的な問題として、フリーランスはごく一部の強者のみが選択できる働き方です。実際、その多くが時間を切り売りする日雇い労働者的な光景も目の当たりにしました。

 

もちろん、そんなユートピアのような組織はないでしょう。したがって、次のことに留意する必要がありそうです。

・組織に属するために必要とされるコミットメント量(例えば、業務量や行事)が小さい場所

・上司に箸の上げ下げまで管理されない場所

・「自分のものさし」と「その接点:時代の流行に敏感である、その波乗りがうまい」

 

④60%理論(尊敬するとは?)

これは先日のメールで書いたので、割愛します。

 

⑤自分のアイデンティティーを喪失

本当の意味での失敗は、自分のアイデンティティーを喪失したこと、反骨心は人格を歪ませる。社会性の喪失(=そのコミュニティーに馴染もうとする努力)は上部にすぎない。対人能力の喪失も同様。僕は自分の居場所を失いました。俺は長岡の人なのに、M高の肩書きは辛かった。地方ほど出身高校のヒエラルキーによって、その人への評価が決まってしまう。その意味で京都も同じ。東京は、土着の何かの色が薄い分(ドライとい表現もあるが)人生をリセットできてよかった。