すべての発達障害者が"そうである"というわけではありませんが、こととくにASD(グレー)に該当する人にそれが散見されます。

目立ちたいとか愛されたいとか、教祖になりたいとか陥れてやりたいとか、そんなとんでもない魂胆で行っているのでもありません。

本当に、ただただ"胸が痛むから"手を出してしまう、首を突っ込んでしまう、限界でも関わろうとしてしまう、そして真面目な人も多いので「全部を一人で抱えようとする」のです。

発達障害とは「能力の凹凸が強い」特性を持つ人々を言い、そうでない人と比べて得意分野では高い能力値を持ちますが、不得手な分野では本当に苦痛を感じる程度にできない場合もたくさんあります。メタ認知、客観視が苦手であったり、衝動的な部分が手前に来やすかったりする人もいます。

上手くハマればとても素晴らしい伸びを発揮しますが、自身の得意や魅力にたどり着くまでに多くのキツい失敗を繰り返す。そうして折れ切ってしまう前に、なんとか本人が掴み取れればよいのですが。

"彼ら"は本当にしんどい。こころに嘘をつけないが、それゆえに痛手を負い、自死を選ぶことも辞さない。周りは、そんな彼らの悩みに、きちんと向き合ってあげているのでしょうか。

 

 

 

 

 

ただ一方的に、メサイアコンプレックスだなんだと周りが言って抑制や否定をするのは、簡単なことですがそれはどうなんでしょうか。

そうではなく、せめてやっている側の本人に動機や理由、思想や目的などの聞き取りをしつつ「それをするとどうなるのか」「相手は実際どうなのか」「やる側はふさわしい状態なのか」などの助言を、周りがすべきなんじゃないでしょうか。

せっかくの純粋で素直な心をへし折るのが目的ですか?見ていて危なっかしいとかやるべきではないと思うのなら、叱る止めるではなく"諭す(誘導する)"ことをしたらどうなのでしょう。

人を助けることや助けられることに不信、疑心暗鬼な人が多い世の中であるのも原因のひとつになっていると思っています。

 

 

 

バウンダリー(自他境界)や自己愛性の問題である場合もあります。が、発達障害は客観視、メタ認知も苦手ですしそういった非難を含む知識ばかりを拾って、相手のことをきちんと知ろうとする姿勢を持たないのでは、ただただやろうとする側の心を傷つけ殺すだけです、それは無理解だ。

面と向かって糾弾しかしないなら、知ろう諭そうという穏やかな姿勢が持てないなら、黙って見守っておくほうが平和なはずです。

"自分のこころの安全安心を脅かされるから"という点で言えば、非難する側も助けたがる側も、大して変わりません。

 

自分の心が痛むから。放っておくことができないから。かわいそうに感じて苦しいから。

そうです、助けようとする側も「自分のこころの安心安全が脅かされるから」それをどうにかしたくて行動に移すんです。

助けようとしてしまう側は、相手が本当に望んでいるもの・求めているものは何か、自分のそれは本当に適切な行いか、相手との思想や価値観にズレは無いか(すり合わせをする機会を設ける)、相手を信じることはできているか(自分がいたたまれないからと動いていないか)、相手のことをきちんと「見る」ことができているか(独りよがりになっていないか)等を並行して都度考えていく必要があります。

他人を変えようなんて烏滸がましいことだ、助けを求められるまで手を伸ばしてはいけない、と言う考え方を持つ人も一定数いますがそんなのは無視していいです。まだ浅い部分に居られる人たちの意見なので、そういう深刻さを知らないのかもしれないです。

見極められるようになれれば、やってはいけないなんてことはないですし実際に助けることができた、助かった人がいた、という「絶対的事実」は忘れてはならないです。

 

 

当ブログの主張としては「もし、その人がもう生きていたくない、死んでいいと思っているなら止めることはしない」ならびに「自傷行為も止めない」です。推奨もしませんが、"逃げ道"を奪っていいこともありません。

やるのであれば多角的な視野や知識経験、価値観や物差し、そして「相手を信じて待つ余裕」は必要になるでしょう。