愛は、向ける相手に「それが愛である」と認識されなければ、”ただの負担”です。いわゆるありがた迷惑や、大きなお世話と言われるものになってしまうんですね。
なぜ迷惑に、重いと、思われてしまうのかは「そこにエゴが混ざっていないかどうか」なんです。
特に親子間で生じやすいものですが、恋愛、パートナーシップでも起こるものですね。
あなたのためにこれだけしてあげたのに、どうして!という、不満。私の言うとおりにすればいいのにと、相手を変えようと強いる。それは、愛ですか?
確かに、相手が「変わらなければいけない場合」もじゅうぶんあり得ます。相手が傷や歪みを抱えていて、それで生きづらさを感じている、死にたい気持ちになることもある。そういうループやスパイラルから脱出したがっている、といった場合のことですね。
たとえばそう言う内容に鉢合わせた時に、相手のことを待ってあげられるかどうか、なんです。
もう見ていられないとして手を出してしまいたくなるのは、相手を信頼していない証拠、自分の思い通りに動かしたい証拠です。
もちろん、相手が理解をなかなか示さない、相手が理解を示し動くべきである場合もありますよ。
 
 
このブログでは、愛とは如何なるものであるかと言う話もしてきました。
愛とは「認めて、受け入れて、ゆるす」ことと「相手が自由に健やかに、のびのびと笑顔になれることを願う」もののはずです。
エゴが混ざった場合、相手にできないことがあったり、自分の思い通りにいかなかったりすると、怒りや悲しみが出てくると思います。
相手には相手の都合や事情がある、なんて言い回しをされるから余計に反発したくなるんですよ。
相手のこころの状態は?相手はそれをどう感じ、解釈している?相手の中の価値観はどう作用してる?など、自分との差異を知らなければ、そうなります。
それは、エゴであり、精神的な依存、バウンダリー(自他境界)の侵害につながります。親子であっても、子どものことを何でも掌握しておかなければ気が済まないプライバシーを侵すタイプの、過干渉な親もたくさんいますから。
自分の思想ややり方と、相手が同じでなければならない。それは、愛を与えてるように思えるだけの、相手に愛を与えてもらいたい気持ちです。
 
これら問題が起こるのは「客観視が未熟であるから」とも言えますね。メタ的な視点のことです。
自分と相手と、もう一個”その人たちを上から見下ろす観察の視点”。
自分の意見を通したい、自分を認められたい、相手のことが好きであることに変わりはないのに……、自分を受け入れて欲しい、そういう「満たされたさ」が、どこかにあると思います。
ここらへんのことは、苦痛を伴うものですが、きちんと掘り下げなければなりません、相手のことを愛そうと思うなら。
 
僕からすれば、愛が難しいことだとよく言われているのも、よくわかりません。エゴを出さなければいい話、つまり相手のこころに耳を傾け、それを救えばいいという単純なことだからです。そこに、すべての工程と結果が詰まっています。
でも人間は、うまくいかないことの責任の所在を、自他に求めたがり、それを責めます。曖昧にできないんです。
やる側に傷や歪みがあれば、他責的になりますね。
やられる側、相手が自身の内面を言語化できるタイプならいいのですが、そうでない人のほうが大多数なんだと思います。
 
自分は相手から愛を向けられているんだ、という部分を自分を折り曲げて、迎合してまでやらなければならないなら、それは「無理をしている状態」かつ、愛ではありません。「条件付きの愛」と言われる、親と子の間で、かなりの確率で起こっているものです。
自分は親から愛されているんだ、これも愛なんだと、本当はしんどい、苦しいのに無理やり納得しようとしたこと、ありませんか?
親も、上司も、自分より格下だと思うもの(子どもや部下、後輩など)には「親(上司)」という肩書を使って権力を振り回し、言うことを聞かせようと無意識的に動きます。

 

 

子どもだからとナメている親(肩書きに依存しているだけの大人)は、大変多いです。自分よりも下にみなしている彼らにもプライベート、自由があり、大人と変わらないこころがあり、考えがあり、思想がある。モノを知らないだけで、きちんと独自の世界観がある。

愛だと思っているだけの、支配、コントロールしたがっている自分の行いを、顧みることができる大人は多くないですね。

 

自分のこころを満たしたがっていることに気づいていないから、愛だと思っているものが受け取ってもらえていない時に、怒りや悲しみ、涙が出たり、喧嘩をします。

相手を愛そうと思うなら、相手のこころを聴くことですよ。

それをせずに、自分の意見を受け入れてもらえないこと、自分の思い通りにならないことを相手を責める材料にしてはいけません。

そして、これらの内容は「親がそうであった場合、子もそれしかわからない」連鎖現象が発生します。

これが、親が傷や歪みを抱えたままではいけないと当ブログで解説している理由になります。

 

 

やる側もやられる側も、内省し反省できるなら、今後を改めていくことができます。そこで停滞しない、未来を変えていくことができる、つまりもっとよくなっていけるのです。

人間は、単純なはずのものを自分で複雑化させていることに気づかないのは、よくあることです。

愛なんて、本当はずっと簡単なことなんですよ。

あなたもあなたに愛されましょう、すべてはそこからです。