竹林の愚人の本棚 -178ページ目

逆説のアジア史紀行

逆説のアジア史紀行/井沢 元彦


過去においては、中国の文化を朝鮮がかみ砕いて日本に流した。
近代史における日本の役割というのは、非常に取りつきにくい西洋文明を、まず日本がいろいろ翻案し、アジアに向かってフィットするように形を変えて、台湾や朝鮮半島、中国、そして全アジアへと発信したことだと思っている。
現在の韓国文化はかなり日本のコピーが多い。
日本も昔は、様々な分野で中国から文化を取り入れてコピーし、それを発展させてきた。 
ハングルを作ったのは韓国史上最大の名君とされている「世宗大王」である。
15世紀のことだ。この時まで朝鮮民族は民族固有の文字というものを持たなかった。
漢字(中国語)があり、文化とは「中華」のことだった。
朝鮮民族の識字率は低く、一部の上流階級だけが本来外国語にあたる中国語を「読み書き」に使い、母国語を表わす文字(記号)は一切なかった。
そこで世宗は民衆の識字率の低さに憐れみを覚えて、「訓民正音」つまり「愚かな民衆に正しい発音を教える」ためにこれを作らせた。
だから「偉大なる文字」ではなく発音記号「訓民正音」なのである。
韓国側の最大の歴史歪曲は「かつて朝鮮半島の国家は中国の属国であった」という歴史上の事実を「国辱」あるいは「民族の恥」として徹底的に隠蔽している点だ。 
朝鮮(李氏朝鮮)が中国(清)から独立することができたのは、日本が日清戦争で勝って下関条約で「朝鮮国の独立」を認めさせたからだ。

黄文雄
「日本は韓国や台湾を属国化したが、それは西洋列強が行なっていたような、収奪するだけの植民地支配とは質的にかなり異なり、鉄道網など社会インフラや国民教育の制度の整備など、近代国家を建設する基礎をつくつている。
韓国の身分制度を廃止させたのも日本だ。
古くから朝鮮農民の多くは、収穫した米を翌年の春までには食い尽くしてしまい、その後麦ができるまでの3か月ほどは、草の根、干し草、団栗などで食いつなぐという生活を、李朝以来数百年間にわたって続けてきた。
それを朝鮮総督府が土地改良、耕法改善、品種改良などの努力を重ね、有史以来1000万石を超えなかった米生産量が、昭和時代には常に2000万石を突破するようになった。」

進歩の触手

進歩の触手―帝国主義時代の技術移転/D.R. ヘッドリク


西欧技術に対する非西欧政府の反応はさまざまで、近代化の選択の仕方によっては、19世紀のエジプトや中国の清王朝からイランの王に至るまで多くの体制が没落した。 
西欧の技術は熱帯地方に、鉄道、プランテーション、電信網などのように別々の事業の形で伝わった。
しかし、産業革命のきっかけとはならなかった。
なぜ西欧の技術が限られた結果しかもたらさなかったのか。 
鉄道時代はほぼ一世紀にわたり、1830年からの最初の30年間は実験の時期で、イギリス、西ヨーロッパ、およびアメリカ合衆国東部で急速な発展がみられた。
鉄道に対する需要は、多くのヨーロッパ人が植民している諸国でもっとも大きく、非ヨーロッパ人で、鉄道に熱狂していたのは日本人だけであった。
1914年まで、鉄道は植民のための新天地を開発し、通商を発展させるものと期待された。
インドは二つの理由で特殊なケースだ。
第1に主権国家にあってインドだけが植民地であり、第2に、鉄道ブーム期の工業化に失敗した唯一の国であった。
インドの鉄道には、イギリスとインドの2つの政府が関係し、イギリスがインドの掌塩を強めるのに役立った。 
鉄道は、予期に反してインドの人々が熱狂的に飛びついた。
乗客数は、1880年の8000万人から1904年には2億人、1920~21年には5億人、そして1945~46年までに10億人に増加した。
その1つの理由はおそらく世界でもっとも低い運賃であった。 
鉄道旅行はカーストの障壁を侵食しながら、何百万人という乗客の目の前で、その障壁に代わるより単純な社会区分を示した。3等単には最底辺の仕事に従事するヒンドゥー教徒やイスラーム教徒、1等車には管理的地位にあるヨーロッパ人、2等車にはインド生まれのイギリス人が乗るという社会区分であった。
亜大陸の新しい国民を形成する宗教・民族意識の覚醒に、鉄道は知らず知らずのうちに役割を果たしていたのである。 
日本では、鉄道建設の着想と資本は国内にあった。
最初の路線である東京-横浜間119kmは、政府の事業で、1872年に天皇の臨席のもとで開業した。
初期の鉄道建設において、日本人はイギリス人技師長を含む多くのヨーロッパ人を雇用したが、鉄道時代が始まってからわずか7年後の1877年に、京都-大津間の路線が外国の援助なしに建設された。
当初から、日本の産業発展に貢献するものとして国会で討議され、海外から押し付けられたものではなかった。 
中国は鉄道時代を通して理論上は統一国家、独立国家であった。
しかし、実際には分割され、外国の干渉に従属していた。
干渉の一つに、ヨーロッパ人の利益に供するためのヨーロッパ企業による鉄道建設があった。
鉄道は、中国の支配階級の抵抗を受け、民衆の怒りをかい、動乱の中で破壊され、損害を被り、放置された。
結果的に、中国は1942年にわずか1万9300kmの線路を有するだけで、それはインドのおよそ4分の1、1人当たりでは5分の1であった。 
第3の事例は、マラヤ、インドシナ、アフリカ植民地のような、さらに小さな熱帯の従属国にあった。
これらの地域は19世紀の終わりにほとんど植民地化されたので、鉄道は1890年代以降、純粋に原料を輸出するために建設された。
「インドの経済生活が外国に方向づけられ限られた資源を浪費していたのと、日本経済が国内的な方向づけをし日本人が利用し得る限られた資本を用意周到に倹約していたのとは、鋭い対照をなしている。
鉄道政策の相違は、自国の問題を処理している国と、外部の列強によって問題を管理されている従属国との方向性と強調点の差異を示している」
結局、インドにおけるイギリスの鉄道政策の主要な関心事はインドをイギリスに役立つようにすることであった。

負ける建築

負ける建築/隈 研吾


公・ブランド・私 
東京の建築家は苦境にある。一般誌がこれほど建築を特集する時代はかってなかった。
実はブームだからこその苦境がある。
建築家の苦境、挫折を象徴する一つの建築がある。
1976年に安藤忠雄が大阪の下町に設計した「住吉の長屋」と呼ばれる住宅である。
この建築は「公」の時代から「私」の時代への転換を象徴している。
まずこの建築が正規の建築教育を受けていない「アンドーという元ボクサーが作った」。
さらに安藤自身この建築を都市や社会に反抗するゲリラとして作ったと説明した。
それらのストーリーがこの作品の「私」性を何倍も増幅した。 

それまでのスター建築家は公的なエリートであった。
有名大学の正規の建築教育を受けたエリートが、公的な主体から依頼され、都市の中で一番目立つ公的な場所に、公的な建築を設計する。
建築にはこのような王道が存在していた。安藤はこの公的システムに異議を申し立てたのである。
道路に対して窓がない。一切の表情がない。
コンクリートの壁にただ入り口があいているだけの、きわめつきな私的デザインを、彼は社会につきつけた。 
1950年代の一群のモダニストの建築家達は70年代の安藤と同じく、個人住宅に目をつけた。
鉄骨造の軽く明るく透明感に溢れた彼らの小住宅は、戦後という時代を象徴するモニュメントであった。
しかし、彼らのムーブメントは60年代には急速にしぼんでいく。 
建築を工業化し、高いデザインレベルのものを安く大量に供給するという図式で建築を「私」のもとに取り戻す彼らの基本的テーゼを実際に担ったのは、彼ら建築家ではなく、プレファブメーカーやゼネコンなどの大企業であった。
大企業という新しい「公」がわりこみ、建築を「私」のもとに取り戻す試みは失敗に終った。 
そこに満を持して主役として登場したのが「公」のチャンピオン丹下健三であった。東京オリンピック、大阪万博などのきわめて「公」的性格の強い建築を、この「公」のチャンピオンが一手に設計した。
技術力のある大企業の前に挫折していくモダニスト達の前で、丹下、磯崎と続く「公」的建築の担い手達は建築の王道を復活させた。
一種の王政復古の如くであった。 
その王政復古的閉塞のさなかに安藤が諷爽と登場した。彼は安藤というブランドを作った。
コアとなる強固なブランド・イメージさえ確立すれば、大企業の技術力だろうが販売力だろうが目ではない。
安藤は安藤というブランドを作ることに成功した。
彼の建築はルイ・ヴィトンのバッグのような強烈なアイデンティティーを発散し、安藤は建築を「公」の領域から「私」の領域へと取り戻すことに成功した。
「公」のおすみつきだけで仕事をしていた公的建築家は用済みとなった。
世界ブランドになりおおせた建築家だけに仕事が集中する。安藤、ゲーリー……、各都市がこれらの世界ブランドを買いあさる。
ブランドも期待通りのお約束スタイルを提供する。
どこかで見たことのある風景が各都市で反復される。そして建築から創造性が消えていく。 
しかし、最大の危機はさらにその先にある。等身大の「私」達は既成のブランドに頼らずに、自分の建築を自分で考え、自分自身の手でデザインしたいと思いはじめている。
一般誌における建築ブームの根底にあるのは、この願望である。建築ブームゆえの建築家の危機とはその意味である。
第二次大戦以前の日本では、木造住宅という領域に成熟した建築文化が存在した。
大工という名の謙虚でしかもすぐれた専門知識を持つ建築家が建て主をサポートしながら、上質の建築をデザインし建設していた。
しかもそこでは見事に「私」が主役の座をしめていた。 
現代の状況を、この建築文化の数十年振りのリカバリーと捉えることも可能であろう。
まだ小住宅や店舗という限られた領域の中とはいえ、「私」の方法で作られた繊細な建築が少しずつ回復しつつある。
残された課題は、この「私」という建築手法を、大きな計画、大きな建築にまで拡張できるかである。
「私」という地道で着実な方法を鍛え、一歩ずつ広い領域へとひろげていく以外にこの都市という「公」を再生させる道はない。

僕らの八百屋 チョンガンネ

僕らの八百屋チョンガンネ―野菜や楽しさ、売ってます。/イ ヨンソク


ソウルを中心に13の店舗を構え、敷地面積あたり韓国1の売り上げを誇る八百屋「チョンガネン」。
1993年、漢江の河川敷でスルメ売りとの出会いで商売に人生をかけようと心に決めた。
ヨンソクは、当時の緑と経験を「幸運」として心に刻んでいる。
「商売には踏むべき段階がある」というのがヨンソクの持論だ。 
木は、大きな木の下で育つことはできないが、人は、大きな人の元でより大きな人に育つことができる。
スルメ売りを師匠として、一年のあいだ全国各地を転々としつつ商売を覚えた。
1994年、トラックを1台購入して、青果業として独立することにした。 
質の良い野菜や果物の見分け方、商品の鮮度を落とさない保存法、売れ残った商品の処分方法、お客の関心を引くコツなど、市場の卸売り商人をつかまえてはいちいち教えを請うた。
ヨンソクに特定の取引先はない。お客の味覚を満足させられる商品を毎日選んでいる。
仕入れのたびに大量の果物を味見するのである。
すいかは半分に切って中心部分でなく皮ごと端の部分を切りとって味を見る。
中心ほど糖度が増すので、皮ギリギリのところでも充分な甘みがあれば、そのすいかはまるごとおいしい。
りんごは、ダンボールをひっくり返し、いちばんまずそうなりんご3つと、いちばんおいしそうなりんごひとつ、こんな調子で4つずつ味見する。
このように選別された商品だから、客はいちいち確かめたりしないで買っていく。
仕入れた商品はその日に売り尽くされる。 
チョンガンネのスタッフと客は、ごく自然に冗談を交わす。
客のほうでも、自分をよく知るスタッフに相手をしてもらいたがる。 
スタッフは、それぞれ200人もの顧客の情報を記憶している。
客の容貌、服装、行動、そしてその客と交わした会話の内容などを記憶して、次にその客に出会ったとき、記憶を呼び起こして活用するのだ。  
2005年現在、独立した当時の仲間たちはみな独立してそれぞれ別の店舗を構えている。
「まるごと大自然」という屋号を掲げた一種のチェーン店だが、ヨンソクにロイヤリティを支払っているわけではない。
ヨンソクにとって重要なのは、後輩たちが足場を築き、自分の力で成長してゆくこと。
彼らが独立して商売している姿を見るだけで、充分満足なのだ。
今現在、チョンガンネで働いているスタッフたちも、みなそうした夢を持っている。
今でも、八百屋の社会的な位置づけはけっして高いとは言えず、それを生業とすることに、若者たちは二の足を踏む。
自己実現の場と考えるよりは、世間から低く見られる職業だという先入観が強い。 
しかし、チョンガンネのスタッフたちは、この仕事に自分の夢を見出し、情熱を傾けている。

阪神大震災 流通戦士の48時間

阪神大震災 流通戦士の48時間―街の明かりを消したらあかん/流通科学大学震災研究会編


「神戸が震度6…」 
神戸は創始者・中内功の生誕の地ということの他に、大阪の千林商店街の小さな個人商店から新生ダイエーとして本格的にスタートしたダイエーイズムの発祥の地である。
ダイエーマンの言わば聖地であり、ダイエーを象徴する場所なのだ。
その神戸がかつてない規模の大震災の直中にある。
三宮界隈は倒壊したビルが道路に重なって倒れ、至るところで車や人の行く手を阻んでいた。
夕暮れ間近、男たちは19店の前に立った。
無言で自分たちのシンボルを眺めた。
ビルの中央が屋上から下の階に向かって激しく潰れ落ち、店舗としてすべての機能を消失した姿。
その痛々しさは、男たちの心にもまた大きな痛 みを与えた。 
震災当日からダイエーとローソンは、できる限り店を開けた。
倒壊した店は、軒先で商売を始めた。
彼らが用意した商品は被災 者にとってなくてはならないものばかりだった。
地震による停電は当初260万軒に及んだが、72時間後には11万軒に減少した。
ダイエーは電力の復旧から 直ぐに各店舗の照明を24時間点灯し、被災者に復興へのエールを送り続けた。
中内功は「タダで配るのは国の仕事だ、我々小売は店を開けていつもの値段で販売し続け安心感を与えることが使命だ」と言った。
電気、水道、ガス、電話、それだけじゃなく、販売も大事なライフラインだ。プロとしてライフラインを守れ。
ダイエーはいち早くヘリを確保し、地震発生から極めて早い段階で神戸に入ることができた。
初動が早かったから物資の到着もどこよりも早かった。
政府の災害対策本部設置より3時間も早く対策本部が設置され、地震発生から間髪入れずに中部、関東から要員や商品を送った。
『すべてはお客様のために』、『地域のお客様に喜ばれる店をつくろう』という歴史を積み上げた企業理念、『お客様に喜ばれるダイエーになる』という経営理念が あったから、地震が起ころうが火事が起ころうが何があろうが、どんな状況でも商品をちゃんと準備して、店を開けて、正しく売った。
24時間体制での営業の 中、ダイエーマンは必死に働き、使命感を感じ、この会社にいてよかったと思った。

日本の国境

日本の国境 (新潮新書)/山田 吉彦


我国の大陸棚の海底には、時価10兆円を超える海底資源が埋蔵されていると言われ、レアメタルが含まれているマンガン団塊、天然ガス消費量の100年分のメタンがあるメタンハイドレート、コバルト・リッチ・クラストなどの資源だけでなく、深海底に生息するバクテリアもバイオテクノロジーの世界で注目されていている。
この大陸棚を200海里を超えて確保するためには、2009年までに地形連続している証となるデータを収集し、国連大陸棚限界委員会に申請しなければならない。
その調査費用は1,000億円。
2004年度の各省庁の合計でも約050億円と、間に合うか危惧される。 
もっとも、ある地質学者は「大陸棚には10兆円相当の資源があるだろう。
しかし、今の技術でそれを掘るには10兆円以上かかる」と話していた。 

沖ノ鳥島は小さな島であるが、貴重な海洋権益をもたらす大きな海を持つ島だ。
サンゴ礁でできている島はとてもデリケートで、1930年にあった6つの露岩が、1952年には5つ。1987年には2つだけとなり、建設省(現・国土交通省)は貴重な島を守るために鉄製の消波ブロックとコンクリートなど総工費約285億円の保全工事を行なった。 
このコンクリート護岸も劣化が激しく、1999年大規模な改修工事が行なわれ、東小島には8億円もする高価なチタン製のネットが被せられた。
年間の維持費は2億円。
2004年中国外務省から「沖ノ鳥島は、国連海洋法条約でいう『岩』であり、排他的経済水域を有しない」との指摘があった。
「岩」では、排他的経済水域が認められない。国連海洋法条約によると島として認められるためには、人が住んでいるか、経済生活が必要。東小島は、地質学的に言えば「岩」である。
しかし、この地質学上の岩が、国際法上の「島」であることを確かにしなければならない。  

沖縄の東392kmにある南大東島の主要産業は公共事業。
他国の侵入や実行支配を許さないためには、人が住み経済活動を続けなければならない。
年間およそ30億円は国境の島を守る国益への投資と考えなければいけない。 
最果ての地で、自衛隊の駐屯がなくても、経済活動・文化活動を維持することで、領土の保全をしている。   

日本の沿岸警備の盲点は、海上保安庁と海上自衛隊の両者の連携が密接ではなく、指揮命令系統の統一がとれていないところにある。
海上保安庁の人員を増加し、対潜哨戒機や大型高速巡視船などの装備を充実させる施策を取る必要がある。 
フィリピンとインドは、海軍から分離独立したコーストガードを設立している。 
インドネシアにおいては海洋漁業省が設立され、マレーシアでは首相府の国家安全保障局海洋部。隣国の中国では国家海洋局、韓国では海洋水産省が設立されている。
しかし、日本には統一した海洋政策といえるものがまだ無い。 
アジアの国々は、隣国との紛争・対立で多くの血を流してきた。
そのため軍部が前面にでることの恐ろしさを充分に認識している。
だから海の治安維持を行うのは、軍事力ではなく、国際法に基づいた海上警察力であるとするのがアジアの潮流である。 

日本地図から歴史を読む方法

日本地図から歴史を読む方法 2 (KAWADE夢文庫)/武光 誠


大和朝廷の朝鮮半島への進出は4世紀にはじまるが、それ以来、日本は圧倒的な軍事力を背景に朝鮮半島の国々より優位に立ち続けた。 
聖徳太子が、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書をいたす」という国書を送って以来、日本は中国から、中国の文化を慕って国交を求める「化外募礼」の国とされ、中国の属国より上位におかれていた。 
天智2年(636年)の白村江の敗戦で新羅と百済の支配権を失った日本は中国の属国、新羅と同列の扱いとなる。
大宝2年(702年)遣唐使の栗田真人は日本を新羅より上位に位置づける使命を帯びて、新羅の妨害を受けない南路をとった。
このとき以来、遣唐使は南路から中国入りするようになり、多くの困難を経験した。 
奈良時代に送られた4回の遣唐使の中で全船無事に帰還できたものは養老元年(717年)の一例のみ。
天平4年(731年)では4隻中2隻、天平勝宝2年(750年)では4隻中3隻、宝亀6年(775年)では4隻中3隻が帰っただけ。
約150人を乗せる遣唐使船は、幅約3m、長さ約45mにつくられていた。
しかも細長い形をしていたため、前後に折れやすく、中央に帆柱を立てているため、逆風では航行できなかったという。
このように多くの犠牲をともなう命がけのものであったが、彼らがもたらした多数の文献が日本文化を高めた。

イスラームの根源をさぐる

イスラームの根源をさぐる - 現実世界のより深い理解のために/牧野 信也


イスラームの教典クルアーンには、商人の言葉、商業上の語彙が用いられている。
現世における人間の行為を「稼ぎ」と言い、この世で善を行うことは「神に金を貸すこと」であり、宗教或いは信仰は「神との取引」あるいは「契約」であり、来世における報いは「稼ぎに対する支払い」という。
最後の審判の日は、「総決算の日」となる。
イスラームはそもそもの根源から、砂漠的人間、遊牧民の宗教ではなく、商人の宗教、都市的、とりわけ商業的宗教であった。 
ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームを含め、広くセム人の宗教世界の基底には、神は絶対的に唯一で、怒り即愛、超越即内在し、全能な人格神で、この神が万有を創造し、支配し、終末を惹き起し、最後の審判を行う思想が根源的なものとしてある。 
教典クルアーンは、先行するユダヤ教やキリスト教の聖書に由来すると思われる多くの事柄がはっきりと認められる。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーゼ、ダビデ、ソロモンなど。
これらの人物は、クルアーンにおいては、彼らが旧約聖書の中でもと置かれていたような現実のイスラエルの歴史の流れの中から、歴史を超えた次元へと引き出され、歴史から遊離される。
時と場所を超えてより普遍的で象徴的な意味をもって働く存在となっている。  

人は母から生まれ、死ぬと再び亡き母のもとへ帰っていく、という日本人の集団としての意識下の真相に潜んでいる先祖回帰の信仰が根底にある者として、イスラームの理解はなかなかに困難なものだ。
ましてや、アラビア語で書かれたもとのクルアーンだけが唯一本当のイスラームの教典であり、翻訳されたものは教典として認められないなどと言われればもうお手上げだ。

時を超えて 阪神大震災10年

時を超えて 阪神大震災10年/産経新聞「阪神大震災」取材班


河田 惠昭 京都大学防災研究所巨大災害研究センター教授

本来、自助と公助の割合は7対1で、多くは住民個々人の自助努力が被害軽減に寄与するのだが、多くの人は逆だと思っている。
防災は行政だけの仕事だというのは間違いだ。
この考え方を変えない限り、行政がいろいろやっても不満がでる。
同時多発的に数十万人規模の被災者が出る災害にはそういう対応が必要か。
被災者にならないために、自助努力の前提をしっかり身につける。
これがひいては、明日の災害に強い町づくりにつながるのだ。

第1条 逃げるが勝ち
自分は助かるとしか考えないから逃げない。
この固定概念を打ち破るには、地震や津波、水害が起きたら自分の生活圏はどうなるかを知るしかない。
第2条 車での避難は“ご法度” 
交通渋滞が起きれば避難の妨げになる。また、放置車両が復旧活動の妨げになる。
第3条 「171」を活用せよ。 
NTTの「災害用伝言ダイヤル(171)」で安否確認。 
第4条 3日間は生き延びよう 
3日持ちこたえれば、組織だった救援活動がうけられるようになる。 
第5条 ご近所を大切にせよ 
遠くの身内より近くの他人で、自主防災組織を結成。
第6条 避難生活をイメージせよ 
日ごろから、自分の生活圏の中で、どこに逃げれば、数日間は安全・快適に過ごせるかをチェックしておく。 
第7条「地震保険」で備えを
実際に震災で全財産を失うことを考えれば、保険料は安い。

土地の神話

土地の神話 (日本の近代 猪瀬直樹著作集)/猪瀬 直樹


「私はサンフランシスコ郊外のセントフランシス・ウッドという住宅地が気に入った。土地に多少の起伏があって樹木や草花も多かった。そこの中心にはパリの凱旋門にあるエトワール式道路ができていた。それはその住宅地に美しさと奥深さを与えていた。私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。」 
その結果、道路の幅員は最低でも4m以上、幹線道路は13m、と常識からみると桁はずれの街並みが生まれた。
お坊っちゃんだからこそ採算を度外視できた。 
美しい街並み、和洋折衷の文化住宅、そして生活圏のなかに心を洗うゆとりのスペースをつくる。
理想の生活空間には長屋の?井戸端″ではなく、街のなかでの?広場″にあたる公共スペースで実現される。 
田園都市株式会社の分譲地においてはそれが公園であり、遊園地であり、多摩川の河川敷なのであった。 
エベネザー・ハワードがロンドン郊外レッチワースで試みた「田園都市」は、住宅と工場と農場が一体になった自足したユートピア。
秀雄が思い描いた街は美しいだけのベッドタウンだった。 
渋沢栄一・秀雄父子にとって、田園都市の理想を追うことはカネ儲けとは別の事柄に属していた。
田園都市株式会社のプロデューサー渋沢栄一が死に、その企画を独自に展開させようとする五島慶太の時代がやってくる。
「理想的住宅地」として売り出された田園都市は、多額の利益を挙げたのち、置き去りにされた。
残ったのは、安い土地に鉄道を敷き住宅をつくり付加価値をつけて売る、その利益でまた土地を買い鉄道の路線を延長する、というサイクルを繰り返す営利会社であった。
あらゆる私鉄が点と線のみを考えているとき、五島慶太は大渋沢の田園都市のプランを吸収し、阪急の小林一三の先駆的な沿線開発構想を採り入れつぎつぎと競合私鉄路線を買収していく。