音楽を聴いて泣いてみたい。

 

こんな時は何を選べばいいか。

 

案外、泣ける曲は多い。ただ、だからと言ってその曲はいつ聴いても泣ける訳ではないし、いつもは何でもないのにある時突然泣けてくる場合もある。ある曲のフルートのパッセージに突然涙が出たりと涙腺が弱くなっているのかも知れない。

 

それでは泣ける確率の高い曲を一つ。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」だ。この曲の初演の2ヶ月後に作曲者は自殺している。従来はコレラで死んだと言われ続けて来たが、本当のところはチャイコフスキーの同性愛嗜好が当局に知られたことによる自殺のようだ。

第四楽章は、どんな人が聴いても作曲者が嘆き悲しんでいる様子が聞こえてくるはず。その切々と訴えてくる嘆きに、時として周波数が有ってしまうと泣ける。そしてそんな時が多い。

 

誰の演奏を聴きましょうか。

 

昔買ったレコードで若いアバドがウィーン・フィルを指揮したものがあります。当時気に入ってよく聴いたな。

 

と思いながら、ついネットで演奏を探すとカラヤンの最後の来日公演のものがあった。1988年の演奏。ちょっと聴いてみようかと思って聴き始めたが、とうとう最後まで聴いてしまう。

 

本当、カラヤンのライブものは何を聴いても感動させられること請け合い。

 

macbook airで聴いているが、音がちゃんと分離されていてクリア。第一楽章のクラリネットが下降音型をpppppで吹かされ、次にファゴットがさらにppppppで下降していき(楽譜ではそうだが、実際にファゴットがここまでの弱音で吹くのは難しいのでバスクラリネットが代行するのが普通)、指揮棒一閃、オケが全奏でフォルテッシモを鳴らすとこは、カラヤンとベルリン・フィルでしか聴けない、あの破壊的なのに音楽的なフォルテッシモが聴ける。

 

カラヤンは1989年になくなっているので、この演奏はその前年にあたる。もう80年代後半に入ってからの、昨今、カラヤンのライブの録音ものがいくつもネットで聴けるのはありがたい。カラヤンの実力を有無を言わさずに納得させられるものばかり。やっぱり生演奏にかなうものは無いと言うことだと思う。

 

さて、結果は?

 

「あれツ?」全然泣けないというか、泣ける要素が聴こえて来ない。

 

こんなはずじゃないと、カラヤンの1972年のザルツブルグでの演奏会のものを聴く。こちらは波長が合えば泣けると思わせる演奏だ。やっぱり88年ともなるとカラヤンの完璧主義も弱まってしまっているのだろうか。

 

勢いに乗って同じくカラヤンとベルリン・フィルの1973年のフィルハーモニーホールでの演奏会の映像付きのものを聴く。カラヤンの映像ものなので音のつぎはぎはあるだろうが、何よりもカラヤンのまるで音楽が聴こえて来そうな見事な指揮ぶりはいつもながら惚れ惚れさせられる。その分感動が上乗せされる感じ。

 

88年の東京の演奏会もその場で聴いたら、多分涙ものだったんだろうな。クラシックってやっぱり生演奏がいい。

 

では、曲紹介。

 

第一楽章は、もうすでに悲劇の予感に満ちた響きで始まり、あのフォルテッシモの全奏でとうとう悲劇が起きてしまう。

 

第二楽章は、四分の五拍子と言う変則的なアンダンテ。変則的な拍子が何か揺れるような感じを抱かせる。悲劇に見舞われた作曲家が朦朧としながらも、思い出に浸っているようだ。でもいつもどこか影がある。

 

第三楽章は、なんだろう。感情の爆発?悲劇への最後の抵抗?

 

そして最終楽章、最初から作曲家は打ちのめされているようだ。時折諦めたように穏やかな気分になるが長くは続かない。直ぐに差し迫った悲劇に嘆き悲しみ、ついには打ちのめされ、息絶える。

 

この章終わり。