天児屋根命の子孫の藤原氏 | 心の鏡

心の鏡

このブログは主に神道について書いています。ブログタイトルの心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

今日のNHK大河ドラマ「光る君へ」を見ていて思ったこと。

平安時代の朝廷が舞台なので、あの時代はまだまだ祖神・氏神に自分たちが連なっている意識が強かったろうし、

帝は「この豊葦原瑞穂の国を治めなさい」と

天照大御神に神勅を下された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫として統治していたのですよね。

 

まだ科学技術も医学も未発達だったその時代、

疫病も天災もすべて神の祟りとされ、それらを防ぎ国を安寧に治める為にも、宮中祭祀は重要な政治=まつりごとだった。

 

そして神事に加わる事もある后は、藤原家から、つまり神代に天岩戸神話で、祝詞を奏上した天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖神とする中臣氏(藤原氏)の血筋から迎えて、神事をすることになっていたようですね。

 

(もっとも忌部氏に言わせると自分らの祖神の方が瓊瓊杵尊の母親と兄弟で天岩戸神話でも、天孫降臨でも役目を仰せつかっていたのに藤原氏ばかり台頭してきてって話が『古語拾遺』に愚痴られている訳ですが。)

 

それなのに、一条帝の中宮・定子が後ろ盾の父を亡くし兄達が長徳の変で花山法皇に矢を射かけた問題を起こして左遷された時、突発的に髪を少し切って出家(仏門に入ってしまった)為に、

一条帝がどんなに愛していても、もう尼さんに皇后としての神事は出来ず、その為、周囲の人々からは非難を受けていた。

 

疫病も川の氾濫も、み~んな定子が、なすべき神事をしていない(出来ない)せいで神様がお怒りなのだ!というのが、

当時の人々の考えとして当然だったのでしょうね。

 

そして定子は24~25歳くらいで3人目のお産で命を落としました。埋葬法は土葬。

あの時代、高貴な人は火葬だったはずですけど、やっぱり…。

(鎌倉殿の13人でも源頼朝が亡くなられてから火葬されていました)

 

その前に定子はみんなに呪われていたような気もした。ゲッソリ