本来の日本人は、私たちの「いのち」は父母の「いのち」と個別のものではなく、
父母先祖の「いのち」の延長と見ています。
一対一の対立の意識はなく、永遠の「いのち」に自分の「いのち」が融けて、
自分のうちに父母が居ますと観じるのです。
現代社会は、自我の奥に隠れている「いのち」が不明なのです。
私たちの「いのち」が不明ですと、眼前の「もの」は単なる「もの」となります。
この大事をかつては日本人ならば誰もが分かっていたのです。
山には山の神様が宿っている。
これを「大山津見神(おおやまつみのかみ)」と呼んだのです。
海は「大綿津見神(おおわたつみのかみ)」
風は「志那都比古神(しなつひこのかみ)」
木は「久々能智神(くくのちのかみ)」なのです。
物には物を生み給うた神様が宿っていることが分かっていたのです。
私たち自身の本体である神性な「いのち」を感得できれば、
当然ながら眼前の物の背後にある「いのち」が分かります。
未来を変えるのは、私たちの心を変えることです。
私たちの心の中から相対峙した異心(ことごころ)を祓って祓って、
初めから生かされている「いのち」に軸足を置くことが、今最も求められています。
『時代の大転換点 これからの日本人としての心構え』小野善一郎・著より一部抜粋
昨日「命の別名」を久しぶりに聴いたら、メッセージ性が高く心に響く歌で、
何となくこの『時代の大転換点』の小冊子も改めて読み直してみたくなり、
今日は、ごく一部ですが、載せさせていただきました。