変わる此の世に変わらぬものは、神の心と日の光り
私共を御慈しみ下さる神様の御心は、
大空に照り渡る太陽の光のように、
いつまで経っても変わらない。
しかし、ともすれば私共の心の方が
神様から離れてしまう。
神様の御心に背いてしまう。
其の時、心に暗い影が差し、不安が伴う。
されば邪心や迷いを捨て去り、一心に拝みなさい。
屹度(きっと)、祓へ給ひ清め給への
御神語で救われます。
(神社のおみくじの神の教より)
私なりの解釈
段々「神の教」も揃って来ました。
おそらく50番まであるとして、コンプリートするまで、あと22種。
こうしておみくじを集めてると、神社神道の神の教で繰り返し人々に伝えていることから理解も深まってくるように思います。
「はらえたまい清めたまえ」の祓い詞で救われる…についてですが、
仏教の浄土宗でも「なむあみだぶつ」と唱える事で救われるとしていますが、
同じ救われるでも、それが今生きているこの世での心の救いなのか、
もう生きている間の事は諦めた死後の世界での救いなのかの違いがありますね。
そして言葉の意味も違います。
「南無(なむ)」というのは「帰依します」という事で、その語に続くのは仏様の名前です。その宗派のご本尊様。
つまり「帰依するので救って下さい」という仏様と人間の契約関係です。
一方、御神語(祓い詞・唱え詞)の「はらえたまい清めたまえ」は、邪な悪いもの、暗い気持ちや不安などを祓ってキレイに清めて下さいという意味。
人間が特定の神仏に対しての信仰表明をして救いを求めているのではなく、
元から日本人・日本に住む人々の魂は清らかな神様の分けた魂なのだという考え方が根底にあります。
そして、神道の神様は例えば競合する商売敵と客の取り合いするのと違い、八百万の神々がみんなで力を合わせて日本を守護しているイメージで、
いつまでも変わらず、太陽の光のように慈愛を人々に降り注いでいるけれど、
私共の方は、ともすれば神様の明るい清らかな心から遠い、悪い方・暗い方へ行きがちだから、御神語を唱えて拝むと、今生きているこの世で心が救われますという事だと解釈しました。