神嘗祭と新嘗祭の違い | 心の鏡

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このブログは主に神道について書いています。ブログタイトルの心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

神嘗祭と新嘗祭の違い

 

新穀を神様にお供えする祭りって、11月23日の新嘗祭の前に、10月17日の神嘗祭でもあったけど、どう違うのか?

いくつかの現実的な側面から見た説や、神話からどのような霊的な意味があったのか推察する諸説があります。

 

 区分の違い

まず、区分が新嘗祭は大祭で神嘗祭は中祭という違いがあります。

一般の参拝者は気にしなくても良い区分ですが、神職の方々はそれによって斎戒期間などが違うのです。

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 時期の違いはなぜか?

神嘗祭は古儀では9月で新嘗祭は11月だった。

この時期が定まった理由について、江戸時代後期の国学者・鈴木重胤(1812ー1863年)は、

『延喜式祝詞講義』巻13で、租庸調の租が納め始められる9月に、まず神宮に奉り、租が納め終えられる11月に、天皇自らが聞こし召すのである、と説いた。

 

霊威の更新

日本神話の天孫降臨とは、冬至の日における「日の御子」である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)になぞらえた「にひなへ」儀礼への投影だったと思われる。

本来、新嘗祭は冬至の日の日没から忌み籠って太陽霊がよりつくのを待ち、日が全く果てた亥の刻に(午後10時の前後2時間ごろ)日神の霊威が籠る稲魂を体して霊性を養い、さらに忌み籠ったうえで、暁の寅の刻に再び稲魂を体して霊性を完成し、若々しい日の御子「瓊瓊杵尊」=皇孫(すめみま)として、太陽の復活とともにこの現世(うつしよ)に顕現するというものであろう。

 

大嘗祭・新嘗祭は天皇が天照大御神の霊威を受け、天皇としての霊質を獲得して更新する御儀、

神嘗祭は、皇祖・天照大御神が自ら神威を更新させる御儀であった。

その為、神嘗祭が新嘗祭に先立って行われる。

天照大御神の斎庭の穂と神嘗祭

皇孫命である天皇の立場からすると、「斎庭(ゆにわ)の穂」は降臨される時に皇祖・天照大御神からいただいたものであるが、その大御神は天つ神から「みこともち」=御命令として承ったものであった。

 

従って神嘗祭は天照大御神が天つ神、すなわち高皇産霊尊の「むすび」の霊徳をもって、自らの神威を更新される御儀とも考えられる。

 

また天皇に代わって天照大御神の御杖代(みつえしろ)となる斎王が、奉幣行事の間、侍殿に候していたのは、「高皇産霊尊を以て、顕斎を為さん」との記事をそのままに、高皇産霊尊の霊威が憑くのを待つ姿と拝することが出来よう。

 

しかし神宮には高皇産霊尊を祀った事をうかがわせる痕跡はない。それは天照大御神を以て最高の神とする観念によるものと考えられる。

 

参考書籍『神社のいろは要語集祭祀編』