転生より解脱を目指せ | 心の鏡

心の鏡

天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 前々から、いつかこの輪廻転生について書きたいと思っていたのですが、どうも世間では、ご自分の都合よく

「生まれ変わったら(来世では)こうなりたい」と期待することが少なくないように思います。

 最近では歌舞伎役者の市川猿之助氏がご両親と睡眠薬を飲んで一家心中を図り、70代のご両親は他界、40代後半の息子さんは一命をとりとめて退院し事情聴取されているというニュースも見かけました。

どうやらご家族で話し合って

「生まれ変わってやり直そう」ということでそうなったらしいですが…。

華やかな舞台での姿とは裏腹に、ご家庭では絶望的でそこまで精神的に追い詰められていたとは、本当に痛ましい、悲しい事件でした。

 

それと同時に『苦しみに負けないでほしかった』と悔やまれてなりません。

 

また、『生まれ変わったらやり直せる』と信じ込むのも信仰の自由かもしれませんが、そもそも輪廻転生の認識が間違っていると思いました。

 

死後の世界に輪廻転生が考えられた背景として、

古くからインドでは身分制度が代々世襲され、生まれてから死ぬまで、どんなに努力したり才能があったとしても、それは変えられなかった事があるでしょう。

そして人を含む生き物は死ぬと別の生き物に生まれ変わり、それが果てしなく繰り返していくという輪廻の思想が生まれました。

 

仏教もその信仰を引き継いでいて、

生きる事も苦しみの一つである理由のひとつとしていますが、仏教では生前の行いによって、生まれ変わる者・世界が変わってくることになっています。

例え現世で人間で裕福であったとしても、行いが悪ければ来世では人間ではなく虫けらや獣に生まれ変わってしまう。

 

業の結果として生まれ変わる世界は6つに分類されて

六道(ろくどう、りくどう)と言いまして、

以下のようになっている設定のようです。

(信じる信じないは自由で私は信じてないですが。)

 

天道(天上道、天界道)…空も飛べる天人が住む享楽の世界だが死や老いはある。頭の上の髪飾りがしぼんで楽しめなくなる。

人間道…今ここ。四苦八苦

修羅道…阿修羅が住み、戦い争い、苦しみ怒りが絶えない

畜生道…鳥・獣・虫 苦しみを受けて死ぬ

餓鬼道…腹の膨れた鬼である餓鬼。 飢えに苦しみ続ける

地獄道…罪悪を犯した者が堕ちる。灼熱、極寒、阿鼻、叫喚、賽の河原など。阿鼻地獄は親殺しなど最も罪の重い者が落ち、そこへ落下するのに2千年もかかり四方八方を炎で包まれた一番苦痛の激しい地獄である(Wikiより)

 

 そして、この果てしなく繰り返す輪廻から抜け出すには、

人間道(人間界)という天道に近い位置にいる今生で悟りを得るしかない。

そのためには智慧をもって煩悩を断つことが必要だというところから、お寺で数々の修行をしたり、大乗仏教では庶民向けにひたすら念仏を唱えるなどをしているわけで、

仏教では輪廻の輪から解脱出来るよう説いているのであって、目指すべきは生まれ変わりではなく解脱なんです。

 

それを今時はなんかゲームのリセットボタン押すみたいに、また人間として生まれ変わってやり直そうなんて、

そんな都合よく人間としてやり直せるはずもないと思います。仏教の死生観の理に沿って考えれば。

そうした身勝手で傲慢で甘えた考えだから苦しむのではありませんか。

 

ちなみに悟りを開いて釈迦如来となったゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)でさえ過去生では虎とか兎で、身を挺して良き行いしたという伝説もあります。

 

あと、平田篤胤は地獄のエンマ大王の審判は、

元々は大国主命が幽冥界で采配していたのを大陸側の宗教が取り入れて変化させたのを日本が逆輸入したような説を言ってましたね。

 

そんな訳で、もう現代日本においては輪廻転生は不要だとも思いました。

かつて支配者は自分や自分の子孫の社会的地位と権力と財産などを守り続けるために、未来永劫越えられない身分で不満や反乱・犯罪を封じ込めて統治する必要があったから、

「低い身分に生まれ虐げられ搾取されるのは、前世での行いが悪かったせい」と吹き込んで、反乱の矛先をそらすように洗脳していたのだから。