昨日は図書館で借りていた本のうち仏教入門と神道入門の2冊を返却してきました。
残る「霊の真柱」と「平田篤胤-霊魂のゆくえ」の2冊も返却期限が近づいてきていますが、
江戸時代末期に平田篤胤が著した「霊の真柱」には、
神道的宇宙開闢から天と地と黄泉の国に分かれる過程、幽冥界の概念が説明されています。
意外だったのは、平田篤胤自身は死後の幽冥界での安泰を説いた直後に、
「然(さ)は云ひつ(訳:そうは言っても)、拙者は、毛虫と、仏と、死ぬことは、きついきらひぢや。…どうしても速くその極楽へ行きたがる人の気が知れぬ。極楽より此の世が楽しみだ。」
『伊吹於呂志』(いぶきおろし)『新修平田篤胤全集』より
と、言ってたらしく、
その篤胤が言う「この世の楽しみ」とは、具体的には、
歳末を無事に過ごせる人ならば、
「美濃米を飯にたいて、うなぎ茶漬け、初鰹に剣菱の酒を吞み、練羊羹でも食べながら、山吹の茶を吞んで、国分(こくぶ)の煙草をくゆらして居らるること」だったそうです。
つまり、そこまで豊かでない人であっても、生きている限りそれ相応の楽しみがあるはず、美味しいものを食べて美味しいものを呑むことこそが「この世の楽しみ」と。
それまでは寺請け制度や寺子屋で仏教の死後観の輪廻転生だの解脱を目指して極楽往生とか生前悪い行いをすると地獄に堕ちるとか洗脳されていましたからね。
そうそう、仏教だと女性は往生しないし、お酒を呑むのは戒律に反しているから地獄行きなんですよ。
今時の仏教、お寺はその点しれっと無かったことにしていますけどね。
つくづく、自分の力だけではどうしようもない事、避けられない事があるから、人々は神仏の存在を信じるのだと思います。
その最もたるのが「死」で、それゆえに昔から人は死後の世界の安定(やすまり)が気になっていたと考えました。
『霊の真柱』でも霊魂は死後も存在し続けるのが前提ですからね。
しかし日本神話では、イザナミノミコトが穢れた暗い黄泉の国に行ったとされてきたし、寺請け制度で仏教の死後観・極楽浄土を目指すように教え込まれてきたから…。
あ、ちなみに黄泉(よみ)は「泉」一文字でも「よみ」と読みますが、黄色がついているのは、地中にある泉だからだそうです。
この辺は陰陽五行説の「土」行が色では「黄色」という事に由来しているのでしょう。
そうそう、「霊の真柱」の動画、このまえアップさせてもらったのと別の、紙芝居的なのがあったので、こちらもご紹介します。