乙巳の変から大化の改新・高麗神社
西暦618年 今の中国がある大陸では「隋」という国が滅んで「唐」が興ります。
そこで日本からは遣隋使に引き続き遣唐使が派遣されますが、大陸からもたらされた新知識は律令国家形成へと繋がっていきました。
7世紀半ばに唐が高句麗に侵攻を始めると国際緊張が高まり、周辺諸国では国内の安定化が急務になってきます。
その頃、日本国内では蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼして専横を振るっていました。
そして645年 乙巳の変が起こります。
第34代・舒明天皇の皇子である中大兄皇子が中臣鎌足らの協力を得て、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしました。
そして孝徳天皇が即位され、飛鳥から難波(大阪)に移り、
改新の詔(みことのり)を発して公地公民制への移行を目指されました。
全国的な人民・田地の調査が開始され、大規模な難波京(長柄豊崎宮=ながらのとよさきのみや)が営まれました。
初めて年号を立てて大化とし、大化の改新と言われる諸改革が行われたのです。
ちなみに高句麗は668年に唐と新羅との戦いに敗れて滅亡するのですが、
今の埼玉県日高市…歴史的にはちょっと前まで高麗(こま)郡と呼ばれていた地域ですが、そこに「高麗(こま)神社」がありまして、
日本書紀に高句麗から666年(天智天皇5年)10月に高麗(=高句麗)国からお使いが来たという記述があり、その中に「玄武若光(げんぶじゃっこう)」という名があって、その方がのちに高麗神社の御祭神となった「高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)」だと考えられています。
詳しくは、こちらの漫画を読むと、それから約1300年の歴史が分かります。
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朝鮮半島では高句麗だけでなく百済も滅ぼされたので、
百済復興を支援するため、
第37代・斉明天皇は大軍を派遣しますが、
白村江(はくそんこう、又は、はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗してしまいました。
この敗戦によって大宰府の北方や南方に水城(全長約1kmの堤)や大野城などが築かれ、対馬から大和にかけて朝鮮式山城が設けられました。
中大兄皇子は都を大津京(滋賀)に移して即位されました。
第38代・天智天皇
最初の戸籍・庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成されたり、近江令も完成させて施行されたとも言われています。