飛鳥時代ー仏舎造りは誰の為?ー | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

飛鳥時代ー仏舎造りは誰の為?ー

当ブログの歴代天皇紀でも記事にしましたが、

6世紀の中頃になると物部氏と蘇我氏が対立して、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、

主君である崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく)して政治の実権を握ったことで、

日本で仏教が興隆していきます。

聖徳太子             蘇我馬子

 

そして第33代・推古天皇の時代には、

甥の厩戸王(聖徳太子)や蘇我馬子らが協力し、冠位十二階や憲法十七条が定められました。

また、この推古天皇の時代に、中国の皇帝に従属した地位を示す「王」から、日本独自の「天皇」へと称号が改められたとされています。

「日出づる処の天子」を自称し、自立した国家として歩み始めようとしたのだそうです。

また、『天皇紀』『国記』の国史編纂も行われましたが、のちの乙巳(いっし)の変

で消失しました。

 

  6世紀末ごろから寺院建立、続々と

 

飛鳥の地は、6世紀末ごろから大王の宮が次々に営まれ、次第に都らしくなっていきました。

聖徳太子の創建と言われる法隆寺や四天王寺などの巨大寺院が建立され、多くの仏像が造られました。

蘇我馬子によって創建された飛鳥寺(法興寺)は、初めての本格的な伽藍(がらん)をもった寺院とされています。

百済からの技術者が参加し、従来の掘っ立て柱でなく礎石の上に柱を立てて、屋根には瓦を葺く当時の新技術が用いられました。

 

  仏舎造りは誰の為?

しかし発掘調査によれば、塔の下からは古墳の副葬品と同種の品々が出土していて、

在来の信仰を土台にして仏教が受け入れられたことが伺えます。

↑『出雲と大和』展図録より 

飛鳥寺塔心礎埋葬品(あすかでらとうしんそまいそうひん)

奈良県明日香村 飛鳥寺出土 飛鳥時代 6世紀 奈良文化財研究所 飛鳥資料館

 

日本書紀の推古天皇条には、

「もろもろの臣連(おみむらじ)達、おのおのの君(天皇)親の恩の為に、競って仏舎を造る」とあるそうで、

本来は仏教は悟りを開くことを目的にしているのに、

その本質とは全く違った形で受け入れて、結局は日本古来からの先祖崇拝、在来信仰が土台になっていた訳です。

 

  仏教は現世利益的なものとして

そんな訳で、本質を理解されないまま仏教は、

日本での役割を主として先祖の供養、病気平癒、祈雨(きう)など現世利益(げんぜりやく)的なものとして受け入れられていきました。

 

  天皇統治の根源は惟神(かんながら)

惟神とは神道に従うことをいう。また、おのずから神道が備わっていることをいう。

 

第31代・用明天皇紀

「天皇(すめらみこと)、仏法(ほとけのみのり)を信(う)けたまい、神道(かみのみち)を尊びたまう」

天皇は仏教を受容され神道を尊重されたという意味

 

第33代・推古天皇も、仏教を受容したからと言って、神祇をないがしろにはしませんでした。聖徳太子と蘇我馬子に命じて朝廷の役人を率いて神祇を祀らせた記録があるそうです。

また、この頃初めて文献上に「神道」の用語が見出されます(日本書紀)

 

第36代・孝徳天皇紀には、

天皇は仏法を受容され、神道を軽んじられた。生国魂神社の木を伐採された類(たぐい)が、これである。

惟神とは神道に従うことをいう。また、おのずから神道が備わっていることをいう。

神々は、神の本性のままに我が子孫にこの国を統治するように委任された。

それゆえ、この国は天地の初めから天皇がお治めになる国である。

という意味のことが書かれているそうです。

 

ここでは、まず神道が仏法(仏教)とは区別され、神道がこの国の従来の信仰であることが示されています。

次に神道を軽んじる例として神社の樹木を伐採することがあげられています。

 

そして、惟神(かんながら)は「神のままに」「神として」「神であるがゆえ」「神の御意志のままに」など、さまざまに解釈されますが、

神道が天皇統治の根源に関わるものとして示されています。

 

しかし、神道を軽んじられたと評された孝徳天皇ですが、日本書紀には神祇祭祀が政事(まつりごと)に優先していたことも見え、惟神の道を詔(みことのり)として発せられているとか。

 

但し、「神道」や「惟神」などは当時の言葉ではないとする説もあり、後世の解釈が加えられている可能性はあります。