朱鳥(あかみとり)元年(西暦688年)
天武天皇のあとは、皇后が称制しますが、
まず大津皇子の謀反が露見して処刑される(自害ともいわれる)事件がありました。
これに関わったとみられる姉の大来皇女は伊勢の斎王の任を解かれました。
天武天皇の後継者は皇太子の草壁皇子。
3年(688年)
そして、亡き天武天皇の命令で編纂されていた
国家運営の為の法典「浄御原令(きよみはらりょう)」が完成し律令体制の整備が整い、いよいよ皇太子の即位と思った矢先、
皇太子の草壁皇子は薨去(こうきょ)しました。
皇太子には妻と子供たちがおりましたが、軽皇子(かるのみこ・後の文武天皇)はまだ6歳
そこで皇后は自らが即位 第41代・持統天皇となりました
日本書紀には高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)とあります。
そして高市皇子を太政大臣に任命します。
持統天皇は3年(688年)以降、
しばしば夫婦の思い出の地「吉野」に行幸し、
それは31回を数えたと言います。
翌年11月 持統天皇は大嘗祭を行いました。
即位と関連した践祚(せんそ)大嘗祭の初期の記録です。
6年
農事の妨げになるとの大三輪高市麻呂(おおみわのたけちまろ)のいう事も聞かず、伊勢に行幸します
そして8年
先帝の悲願「本格的な都の造営」も成し遂げました。
都の造営にあたっては「地鎮祭」が行われました。
日本初の本格的な都、藤原京に遷りました。
11年(697年)8月
草壁皇子の子で天皇の孫にあたる軽皇子に譲位しました。
日本書紀の歴代天皇紀はここまでとなっているので、
当ブログもこれにて歴代天皇紀はここまで。