13年(西暦552年)
百済の聖明王から仏像及び経典を贈られ、
欽明天皇はこれを敬うべきか悩み、その可否を重臣たちに問いました。
大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)は、
「諸国が既に信仰しているのに、わが国だけ背くことは出来ません。ぜひともこの教えを取り入れましょう」
と答えます。
それに対し、物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、
「我が天皇は常に百八十神(ももあまりやそかみ)を祭る事を務めとされている。今、改めて蕃神(あだしくにのかみ)を敬うなら、我が国の神々の怒りを招くでしょう」と述べました。
蕃神とは外国の神のこと。ここでは仏、仏教を指しています。
天皇は試しに稲目に仏を祭らせてみました。
稲目は自分の家を寺とし仏像を拝みました。
しかし、その後、疫病が流行し沢山の人々が亡くなりました。
物部尾輿・中臣鎌子はそれを見て、
「やはり神々のお怒りに違いない!」と仏像を棄てることを進言して許され、仏像は難波の堀江に流して棄てられ、寺も焼かれました。
その後、聖明王はなおも任那復興に尽力されましたが、
15年(554年)に新羅との戦いで敗死し、
23年(562年)には任那も新羅に滅ぼされてしまいます。
その事は大きな衝撃を与えたと共に、
多くの渡来人が日本に帰化したことを欽明天皇紀は伝えています。
32年(571年)欽明天皇 崩御
以上で欽明天皇紀おしまいです。
今では信仰の自由があり、政教分離していますが、
昔は新たに外国で信仰されてる宗教を取り入れるかどうか?は、
つまり、支配者が政治的にどうやって国民をマインドコントロールするか?の問題だと聞いたことがあります。
そしてその後も争いは続いていきます。