第29代の欽明天皇(西暦539年~571年在位)は、
父が継体天皇で、母は仁賢天皇の娘であり武烈天皇の妹である手白香皇女(皇后)です。
継体天皇は応神天皇の5世孫だから欽明天皇は6世孫ですね。
応神天皇が祀られている神社と言えば八幡様。
その起源は、この29代・欽明天皇の時代に宇佐の地(今の大分県宇佐市)に祀られるようになったことからです。
現代、ほぼ全国的に八幡信仰のお宮(八幡宮・八幡神社・八幡社と呼ばれる神社)があって、私が検索したら7817社という数があり、2位の伊勢信仰4425社を抜いて全国一多かったのですが、
(今現在の正しい数かどうか分からない)
八幡総本宮・宇佐神宮の公式サイトでは、
神社が全国約11万社あるうち八幡さまがもっとも多く
4万600社あまりのお社がありますと書かれていました。
その後、奈良時代において東大寺大仏建立にそのご加護をする託宣(たくせん・神様がお告げを出すこと)をして、上洛して東大寺の守護神として鎮座したり(現・手向山神社)
九州の重要な位置に鎮座し、朝廷から尊ばれていた八幡神は、
東大寺大仏建立という国家的大行事の成功に際して、
仏号である「大菩薩」の称号も奉られました。
こうして神仏習合の先駆けのひとつとなったのが
「八幡大菩薩」の称号の由来です。
その後、僧・道鏡の皇位簒奪計画を託宣により阻止したことや、
平安時代には都の裏鬼門(南西)にある男山に鎮座することを託宣して勧請されました。
それが石清水八幡宮の由緒です。
この石清水八幡宮で元服の式を挙げたのが八幡太郎義家として名高い「源 義家」です。
その義家の父、「源 頼義」は源氏の頭領として八幡神を源家の氏神とし、鎌倉の地に勧請して武門の守護神として崇めました。
後に「源 頼朝」が鎌倉幕府を開いて現在の地に勧請し幕府の守護神として祀ったのが「鶴岡八幡宮」です。
以後、武家の守護神として各地で祀られるようになっていきました。
日本書紀ではこの御代は朝鮮関係の記事が大半を占めているそうです。
百済の聖明王は544年、
任那諸国の王などを集めて復興を協議し、
敵対する新羅に通じている任那日本府の官人を帰国させることを請願しました。
そして翌年545年に聖明王は任那復興の策を示して日本の救援を要請します。
その間、百済は高句麗の侵攻を撃退したので救援は止められましたが、551年、再び新羅・高句麗の連合軍に攻められたので救援を求めてきました。
そして552年、聖明王から仏像・経典を贈られました。
(つづく)