そうして神功皇后が摂政となり13年。
皇太子は武内宿禰を従えて、
角鹿(つぬが)の、気比大神(気比神宮 福井県敦賀市)を参拝しました。
この角鹿の地は仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐に行く前に行宮(かりみや)を建て住まれたところでした。
応神天皇紀の一書(あるふみ、一説にはと同意)では、
この時、皇太子が気比大神と名を交換し、
皇太子が誉田別尊(ほんだわけのみこと)、
大神が去来紗別神(いざさわけのかみ)と名乗ったということが書かれています。
46年 この年から、しきりに百済の使者が渡来し、我が国への恭順の意を表します。
同盟国として友好関係を続けます。
52年 百済から七枝刀(ななつさやのたち)をはじめとする宝が献上されました。
石上神宮に伝承している国宝・七支刀(しちしとう)は、この時のものとされています。
で、この七枝刀は、私も展覧会で見た事がありますが、
中国・東晋の太和4年(西暦369年)と解せる銘文が刻まれていました。
また、日本書紀においては神功皇后摂政39年(239)の条には『魏志倭人伝』の記事が引用されており、「倭の女王、卑弥呼」と神功皇后が重ねられているそうです。
しかし、神功皇后摂政元年は西暦201年。
それで神功皇后の時代に七支刀が献上されたとなると、実年代は4世紀となり、
日本書紀は干支2巡、つまり120年をさかのぼって記述されたのではないかと言われています。
そのほか、中国吉林省(きつりんしょう)にある高句麗の王・広開土王(好太王)の功績を記した石碑には、辛卯年(西暦391年)に倭国が高句麗に攻め込んだことが記されていて、
4世紀には倭軍の大規模な渡海があったことが伺えます。
この辺りも、大昔だから年(時間、暦)についても不正確で、別の国で不一致だったかもしれません。
それと、日本書紀では神功皇后に卑弥呼を重ねていますが、
日本書紀は西暦で言えば720年に完成したもので、
その時代から見ても4~500年くらい前の古い伝説の皇后の事を、きっと卑弥呼と言っているわけで、史実と違うかもしれません。
現代では卑弥呼は本来の漢字では姫巫女、日巫女だという説もありますし、
そうなると、卑弥呼は弟と政をしていたというので、
天照大神と須佐之男命の姉弟神にも重なります。
なんせかなり古い時代から続く国の神話や天皇紀ですから、
人々が伝承していくうちに、自分なりの脚色を加えていった事もあり得ると私は考えます。
こうして神功皇后が100歳で亡くなると、誉田天皇(応神天皇)がご即位されます。
(つづく)