第11代は垂仁(すいにん)天皇。崇神天皇の第三子です。
垂仁2年(BC28年)
天皇から任那への贈り物を新羅人が奪ったことをきっかけに、両国の抗争が始まる
垂仁3年
新羅の王子・天日矛(あめのひぼこ)が、七種(あるいは八種)の宝物を持って渡来し、但馬(兵庫県北部)に居を定めて神宝とした
但馬国一之宮の出石(いずし)神社の創始に関わる伝承。この子孫が田道間守(たじまもり)
垂仁5年
皇后・狭穂姫(さほひめ)の兄・狭穂彦王(さほびこのみこ)が謀反を起こす。城に籠った皇后と共に焼き討ちにされる
垂仁7年
相撲の発祥
大和に「たぎまのけはや」という力自慢がいました。
出雲の野見宿禰(のみのすくね)という天照大神の御子の天穂日命の子孫が挑んで勝ちました。これが相撲の発祥と言われています。
垂仁23年
天皇の皇子、誉津別王(ほむつわけのみこ)は、30歳になっても話すことが出来ませんでしたが、飛んできた「くぐい」という鳥を見て声を発したので天皇は湯河板挙(ゆかわたな)に命じてくぐいを捕まえさせ、皇子はこれをもてあそぶと話せるようになりました。
湯河板挙はこれによって賞されて「鳥取造(ととりのみやつこ)」となりました。
なお、古事記では(ほむちわけのみこ)が話せなかったのは出雲の神の祟りとしてあります。
垂仁25年(BC5年)
垂仁天皇は、皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に命じて、
天照大神にとって、より良い鎮座地を探させました。
それまでは崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が笠縫邑(かさぬいのむら)にお祀りされていたんでしたね。
永年の役目をねぎらい、若手に交代。
倭姫命が各地を巡って伊勢にたどり着いたとき、
天照大神は嬉しそうに、こう仰せになりました。
『この神風の伊勢の国は
常世の波の重波の帰する国なり
傍国の可怜し国なり
是の国に居らむと欲う』
(このかむかぜの いせのくには
とこよのなみの しきなみ よするくになり
かたくにの うましくになり
このくにに おらむとねがう)
【訳1】
神風の吹く伊勢の国は、常世からの波が重なって打ち寄せる、東の端にある美しい国であるからここに居たい
【訳2】
この神風の伊勢の国は、海のかなたから永遠の波がしきりに打ち寄せる国である。片隅にある美しい国である。この国に居たいと思う
【訳3】
伊勢は常世の国からの波が重なって打ち寄せる、東の端にある美しい国である。この国に留まりたい
そこで、お言葉通りに社を建て、五十鈴川の川上に斎宮(いわいのみや)を設け、磯の宮と名付けました。
これが天照大神が初めて天降られたところです。
別の伝承では、垂仁天皇が倭姫を「御杖」つまり神様のお気持ちを心身に受け止め、神様のおそばにお仕えする人として天照大神に奉ったと言われています。
そして倭姫は天照大神(八咫の鏡と思われている)を磯城(しき)の神聖な木の根元にお祀りしました。
その後、倭姫は天照大神のお言葉を頂き、伊勢の国の渡遇宮(わたらいのみや)にお遷(うつ)ししました。ここではその渡遇宮は伊勢の内宮をさします。内宮鎮座
垂仁28年
天皇の弟・倭彦命が亡くなり、習わしで、身近でお仕えした人々が生きたまま墓に埋められました。死にきれず泣き叫ぶ彼らの声を聞いた天皇は、こうした殉葬の風習を禁止します
垂仁32年
皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった時、野見宿禰が生き埋めの代わりに埴輪を造って埋めることを進言し「土師(はじ)の連(むらじ)」の姓を与えられました
垂仁39年
皇子の五十瓊敷命(いそにしきのみこと)が剣、一千口を作り、石上神宮に納めた
のちに五十瓊敷命に同神宮の神宝を司らせた
石上神宮は朝廷の武器庫という一面も持っていた
垂仁90年
田道間守を常世に遣わして、非時の香菓(ときじくのかくのみ)=橘の実、不老長寿の薬を採りに行かせます
垂仁99~100年
田道間守が帰らぬうちに天皇崩御
翌年、田道間守がやっと手に入れて帰ったところ、天皇がすでに崩御されたことを知り、悲しみのあまり「生きていても仕方がない」と言って天皇陵の前で自ら命を絶ちました
以上、垂仁天皇紀でした。
私には、神話のおへそ『日本書紀編』にだけ、1行半書いてあるだけで、
他ではあまり載せられていない、その当時の皇后の兄が謀反を起こして、皇后ともども焼き討ちにされた話がショックでしたね。
あと、30歳までしゃべれなかった皇子がいたのも初耳でした。
さて話も進んで、次は皆さんご存じの方が多い日本武尊(やまとたけるのみこと)の父君である景行(けいこう)天皇の代になります。