神武天皇紀【5】尾の生えた八十猛/丹生川上神社 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

磐余彦尊の軍勢が宇陀を出発し、大和盆地へと向かうと、次に忍坂(おさか)の大きな室(むろ)に至ると、そこには尾の生えた八十猛(やそたける)が室の中で唸りながら待っていました。

 

※むろ【室】とは、ものを保存・育成のために外気を防ぐように作った部屋を言いますが、山腹などに掘って作った岩屋・石室や古代では土を掘り下げ、柱を立て屋根をつけた家のことも言います。

マンガならわかる「日本書紀」だと、この点は国見丘の上の頑丈な砦とされていました。

 

そこで偵察の報告を受けた尊が、どうすればいいか考え眠りにつくと、夢に天津神(あまつかみ)からお告げがありました。

 

『磐余彦よ 天香具山(あまのかぐやま)の土で皿を八十枚と、お神酒を入れる甕(かめ)を作りなさい。そして身を清めてお祀りしなさい。そうすれば勝てる』と。

 

※天香具山は奈良県橿原市の山で畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)と共に大和三山とされます。

 

尊は目が覚めると早速、天香具山の土を採取しようと思いましたが、困った事に、山は敵陣の向こう側にありました。

そこで椎根津彦(しいねつひこ)と弟猾(おとうかし)に、老人に変装して天香具山の土を採ってくるように命じました。

この作戦で見張り番も2人を通し、無事に沢山の土を採って帰ることが出来ました。

 

尊は夢のお告げ通り、沢山のお皿と厳瓮「いつへ」「いつべ」と呼ばれるお神酒を入れる甕を作りました。

 

そして丹生(にう)の川上で天神地祇を祀りました。

 

※天神地祇は普通「てんじんちぎ」と読みますが、ここでは「あまつやしろ くにつやしろ」と仮名がふってあり、全ての神々のことです。

 

また、宇陀川の朝原で御神意を占いました。 

 

※これまでにも何度か出てきた誓約(うけい)ですね。

何かをして結果がこうだったら正しいとか神様も認めていることだと占う。

 

尊は

『天香具山の土で作ったお皿で飴を作ろう。できたなら私は武器無しでこの国を治めるだろう!』と言って作ったところ、うまく出来たので、神様も応援されている吉兆と感得しました。

 

また丹生の川で今度は甕を使って御神意を占いました。

『この甕を川に沈めて、私の志が叶うなら魚たちよ、木の葉のように浮かべ!』すると魚が浮かんできましたので、尊は勝利の確信を得ました。

 

※この場面は、現在、丹生川上神社公式サイトの「神社について」のページの下の方にスクロールすると「萬歳旛(ばんざいばん)について」のところにも書かれていますが、

丹生川上神社の神域に「夢淵」というところがあって、そこにお酒の入った厳瓮「いつへ」という御神酒を入れる瓶を沈めて、お酒に酔った大小の魚が水面に浮いて流れる事により勝利を占ったそうです。

その時の魚こそ、魚へんに占うと書く「鮎」!

 

それから尊は丹生の川上の根付の真榊でお祀りし、この時より厳瓮「いつへ」が置かれるようになりました。

それから尊は顕斎(うつしいわい)という、見えない神を見えるようにして祀る儀式を行いました。

自らの体に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の御霊を顕(あらわ)す為に、道之臣に斎主をさせ、お供えは古式の名でこう呼ぶことにしました。

火=いつのかぐつち

水=いつのみつはめ

食べ物=いつのうかのめ

薪(たきぎ)=いつのやまつち

草=いつののづち

神々にお供えした後、磐余彦尊はお下がりを頂きました。

こうして神々を祀られた尊は必勝の意気込みの歌を詠みました。

 

神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石にゃ

い這(は)い廻(もとお)る 細螺(しただみ)の 細螺の

吾子よ 吾子よ 細螺の い這い廻り

撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

 

【歌の大まかな意味】

伊勢の海岸にいる巻貝のように粘り強く這いずり回って必ず勝つぞ

 

そして八十猛など敵を次々と倒して進むのでした。

 

・・・という話と別に、

天津神の御子は八十健の為に大勢の膳夫(料理人)を用意して食事を与えました。

そして膳夫全員に太刀を持たせて「歌を合図に一気に斬ってしまえ!」と命令し、一気に撃ち殺しました。

という伝承もあります。

 

(つづく)