以前、読んだグレゴリー・ベイトソンの『自然と精神』が

再び蘇る。

読んだ当時は絶版だったので図書館で借りていた。

アマゾンで調べてみると、文庫本で再販されていた。

さっそく注文する。


以前、読み終えてから書いておいた内容を記すことにした。

再読が楽しみである。


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ようやく読み終えたグレゴリー・ベイトソンの『自然と精神』
この本が絶版とは残念。
ベイトソンは、精神は関係であるのではないか、
そう問いかける。


知性と情動は相互に補い合うものであり、


二つを分離することや優位性を計るのは粗暴な還元主義を招くとし、


この世界の主要な問題の数々は、そもそも自然の仕組みと人々の考え方が食い違っているのではないか…。
ゲーテの色彩論、植物学、生態学の基本原理、
メタモルフォーゼ(変容のプロセス)を基に、


相互の関連に基づいた過程、そこで起きるパターンが
精神なのではないか、

という理論を展開している。

 

以下、本文より忘備録として。
 

葉をつけるものは茎である
その角に芽を持つのが葉である
芽の通り過ぎた跡が茎である(ゲーテ)
ベイトソンが上記のゲーテの言葉を引くとき。
万物を満たす不可視にして普遍の美、対応する部分同士が対応する関係の中にあると解く。
 
「結び合わせるパターンというものを考え始めるときの
道筋は相互に作用し合う部分の演じる舞踏になる。
その振る舞いは、生きとし、生けるものすべてを結び合わせるパターンによって生成し


関係を保ちながらを内部から外部へ
外部から内部へと反復を繰り返し
交信することを望んでいるかのようである。
人、私たちのからだ、構成する内部は
繰り返しリズミカルに富み、


音楽のように無数の関連を通して存在するにちがいない。」
グレゴリー・ベイトソン『自然と精神』より引用
 
この記述を読み終え、
関係というふるまい、途方もなく、けれど近いもの。


私の皮膚の内部や外部にも在って、とり巻いている。


手や顔、足や筋肉、血流、内部の臓器や脳にも。
それらと共にいる自分という存在は
眠っていようが目覚めながら無自覚でいようと

ふるまいとして常に交信し世界と結びついている。
そのことをどこかで知っていることとして知らしめてくれた。

生命は動いている、今もこうして心臓の鼓動が規則性を持って
繰り返し、繰り返し脈打っている。
生きるとは? 生命とは何か?多くの文脈のなかで語り尽くされ、


その活字なり言語なり、言葉だけが自分の外で浮遊し掴み逃していた。


ベイトソンの関係というデクストは、分断されていたあらゆることが
小さな部分と全体、

そのまた部分と全体が分ちがたく繋がっていることを
身体の内から実感させてくれた。