鶴野は、ひと通り身の上話をした後、冷蔵庫を貸してもらったことのお礼として、「食事を作ります」と言う。

すると、猿橋を除くみんなが、なぜか食事の支度をし始める。

この芝居は、舞台が広いLDKとなっており、奥にキッチン・カウンターや冷蔵庫などがあるのだ。

さて、「言葉」を信じられなくなった人間たちが「食事」に向かったことについては、もっともな理由がある。

食べ物は、言うまでもなく、これから主体の「身体」を構成することとなる。

(もっとも、「自己の身体」と言ってしまうことの危険については、また別の哲学的な問題があるのだが(うんこと死体、あるいは抑圧された身体(6))、今は立ち入らないことにする。)。

私見では、登場人物たちは、「言葉」の世界をいったん離れ、「身体」の世界に立ち戻ろうとしているのであり、ここにおいて、「記号接地(シンボルグラウンディング)問題」が現れたかのようだ。


言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか 今井むつみ/秋田喜美 著

スティーブン・ハルナッドあなたは中国語を学ぼうとするが、入手可能な情報源は中国語辞書(中国語を中国語で定義した辞書)しかないとしよう。するとあなたは永遠に意味のない記号列の定義の間をさまよい続け、何かの「意味」には永遠にたどり着くことができないことになる。

 まったく意味のわからない記号の意味を、他の、やはりまったく意味のわからない記号を使って理解することはできない。他方、中国語の語を母語の語を介して理解することは可能である。母語の語は「感覚に接地」しており、接地した語を通じて接地していない外国語の記号を理解することが可能なのである。

 「ハルナッドは、機械が辞書の定義だけでことばの意味を「理解」しようとするのは、一度も地面に接地することなく、「記号から記号への漂流」を続けるメリーゴーランドに乗っているようなものだと述べている。他方、永遠に続くメリーゴーランドを回避するためにすべての記号が身体に直接つながっている必要はないとも言う。最初の一群のことばが身体に接地していればよい。身体につながっていることばをあるボリュームで持っていれば、それらのことばを組み合わせることで、あるいはそれらのことばと対比させることで、直接の身体経験がなくても、身体に接地したものとして新たなことばを覚えてくことができるのである。」(p124~126)

 

滋味掬すべき言葉だが、ここでいう「接地」(グラウンディング)とは、例えば、「メロン」という記号について言えば、「メロン」を見たり食べたりしたことのある人が、「メロン」という言葉を聞けば、メロン全体の色や模様、匂い、果物の色や触感、味、舌触りなどさまざまな特徴を思い出すことが出来る、ということを意味する。

ここで、「接地」とは、ハルナッドによれば、「「身体経験」を有すること」と定義される。

もっとも、ハルナッドは議論をここで止めているため、どのような経験が「身体経験」であるかについては、結論を見ていない。

この点、今井むつみ・秋田喜美両先生によれば、「身体性」を有する言葉の代表例は、「オノマトペ(擬声語)」であるという。

だが、私見では、「食べ物」は「これから身体となるもの」であり、それゆえ「接地」の対象としては最も身近なものの一つである。

そもそも、人間にとっての最初の「食べ物」は母乳、つまり「母の身体の一部」だったのだ。

それに、言葉も「食べる」行為も、「口」という身体の同じ器官を使うではないか。

・・・すると、田端の妹:夢子が電話をかけて来て、間歇的にではあるが、劇中に登場する(遠方にいるにもかかわらず、舞台に現実に現れるのである)。

夢子は、田端とだけ会話するのだが、舞台上で進行している出来事を否定するかのような、例えば、

 「猿ちゃんはいないのよ」(記憶に基づいて書いたので、違っているかも)

などというセリフを吐く。

夢子は、地方で理髪店(?)を立ち上げたばかりなのだが、「言葉」ではなく「身体」の方に依拠した職業人であるという点で、俳優である田端とは明確な対照をなしている。

だが、私は、夢子の位置付けが若干不明確なようで、惜しいように感じた。

というのは、夢子は、その名の通り、「夢」の世界から「現実(実体)」としての舞台を浸食・破壊するキャラクターに設定するのが効果的だと思うので、彼女のセリフはもっと明快・攻撃的なものであってよいと考えるからだ。

・・・それにしても、夢子役の宮川安利さんの、何とお父様に似ていること!(例えば、半音は誘惑の音?!|宿題、やってきました!)。