「宮本亞門 コメント
念願であった日本演劇界の頂点とも言える、三島由紀夫氏の『サド侯爵夫人』を新たに創り出す喜びに胸が震えています。
成宮君をはじめとする個性あふれる俳優たちと共に危殆と破壊の縁に立ち上がる高揚を、かつてない舞台として結晶させお見せします。
来年一月――破壊からこそ生まれる美の昂奮を、どうぞご期待ください。」
「サド侯爵夫人」は、「近代能楽集」と並んで三島由紀夫の戯曲作品の最高峰とされる。
むしろ、「戦後戯曲の頂点」と言うべき傑作であり、国内・海外とも常に人気が高い(推しの演劇)。
この作品が刊行されたのは昭和40年(つまり、彼の死の5年前)。
だが、その数年前から、彼の創作力は明らかに衰えを見せていた。
その原因としては、何といっても「鏡子の家」(昭和34年刊行)の”失敗”が大きい。
これを契機として、彼は自分の作家としての能力に疑念を抱くようになったと見る。
「鏡子」=日本文化、「良人」=(昭和)天皇、「真砂子」=日本人という寓喩が、ほかならぬ当時の日本人(=真砂子!)にまるで理解されなかったことに、大変なショックを受けたのだろう(傑作の救済(8))。
だが、同業者の中に「鏡子の家」の真のテーマ、すなわち「日本(文化)の本質とその将来」を見抜いた人物が少なくとも一人いた。
それが、澁澤龍彦である。
その澁澤が書いた「サド侯爵の生涯」にインスパイアされて、三島は「サド侯爵夫人」をつくった。
このように、三島にとって澁澤は、彼の作品のよき理解者であるとともに、創作の素材を提供してくれる大切な友人だった。
ところが、その後、三島は澁澤の逆鱗に触れてしまう。
三島は、「暁の寺」に出てくるドイツ文学者「今西康」のモデルが澁澤であることを小島千加子氏に漏らしてしまい、それが澁澤の耳に入ったのである。
「今西と言う不健康な、性的妄想に取り憑かれた、愚にもつかぬ駄弁を弄するインテリが登場してくるために、「暁の寺」は『豊饒の海』四部作のなかでもいちばん暗鬱な、重苦しいものになっている。こんな人物のモデルと目されたらやりきれないが、それでも三島をして、そう言わしめたことに対する責任の一端は私にあると考えなければならないだろう。三島は私をよほど不健康な人物と誤解していたようだが、私も三島の前で、いくらか演技をしていたということがないとはいえなかった。」(p22)
なんだか、「鏡子の家」で、恩人とも言うべき湯浅あつ子氏を怒らせてしまったエピソード(傑作の救済(4))に似ている。