「そうそう、私の記憶では私の名前は加藤真人なのだけれど、確か君の苗字は澤山だよね。夫婦なのに別姓?」「澤山は私の元々の姓よ。加藤はあなたの旧姓よ」「私の旧姓?」「ええ」「私は君の姓になったの?」「そうよ」「どうして?」「あなたがそう望んだからよ」「どうして?僕も君も身寄りがいなかったのなら敢えて君の苗字にした理由は何?」「理由はよく知らないわ。ただ、あなたがその方が良いからって言ったから。私は苗字なんてどうでも良かったから」「そう…なの」何となく釈然としない。こういう場合普通、男の方の苗字になるのではないかと思うのは私の偏見だろうか。「じゃ、私の名前は澤山真人になるんだ」「そうね…」私の言葉に緑子は一瞬、目を逸らした。その事に不自然さを感じてしまうのは私の考え過ぎなのだろうか。私と緑子は実際に夫婦なのかもしれない、だが緑子はまだ私に話していない事があるように思えてならない。二人の間には何か秘密がある。そしてその秘密を解く鍵はあの物置にあるのではないかと思われる。緑子は今夜からあの部屋で休む。もう鍵は掛けないのだろうか。 床張りをしたせいか、疲れが出てきた私は早々に自室に引き上げた。部屋の中から緑子の着替えが無くなっていた。そう言えば元々そんな物はあったのだろうか。昨夜は確かにあったように思うががそれまでは何も無かったのではないか、否、何か置いてあったような気もする。どうにも記憶が定かでない。やはり、私の記憶はどこかおかしいのだろう。兎に角、緑子と同じベッドで朝まで過ごさなくて良いと思うだけで気持ちが楽だ。こんな事で夫婦としてやっていけるのだろうかと少々、不安が湧くがそれもどうしようもない。こういう事はきっと時間が解決してくれるのだろう。 眠りについてどれくらいの時間が経過したのだろう。珍しく夢を見なかったというのに夜中に目が覚めてしまった。何だろう、何かが聞こえてくる。私はベッドに横になったまま耳を澄ます。小さな声が耳に入ってくる、私は更に耳を澄ます。笑い声のようだ。私はベッドから身を起こして部屋の外に出てみる。その声は緑子の部屋から聞こえてくる。私は足音を立てないように近づき部屋の扉に耳を当てる。確かにその声は中から聞こえてくる。その笑い声は小さな子供の声のように聞こえる。なんだかとても楽しそうな声だ。その声が私の胸に響く。何か言いようの知れない感情が私の中に湧き出しそうになる。その声をもっと聞きたくて私は扉に更に強く耳を押し当てるようにしたが次の瞬間、何も聞こえなくなった。私は部屋をノックしようとしたが結局、何もせずに自室に戻った。 あの声は何だったのだろう。あの部屋には子供が居るのか。否、だが今までそんな気配は一度も感じなかった。まてよ、私の記憶は間違っているのだからそれも忘れているだけなのかもしれない。では、本当にあそこに子供が居るのか。だがそれなら夕食の時に居ないというのも変だ。私達の子供なら何も隠す必要もあるまい。(ああ、何なんだ…)頭の中がこんがらがってくる。何処までが現実の記憶で何処までが間違った記憶なのかが分からない。そもそも私の頭の中に残っている記憶が正しいのかどうかさえ分からないのだから。 翌朝、目覚めた私は早速緑子に子供の事を尋ねた。「子供?」「昨夜、君の部屋から小さな女の子の声が聞こえたような気がしたのだけれど」「ああ、きっとテレビの音よ」「テレビ?」「ええ、何だか寝付けなくて夜中にテレビを見ていたのよ。ごめんなさい、音は小さくしていたつもりだったのだけれど起こしてしまったのかしら」「そう、だったの。否、なら良いんだけれど」テレビと言われればそうだったかもしれない。突然声が聞こえなくなったのは緑子がテレビを消したからなのか。「何のテレビだったの?」「え…っと、よく覚えていないわ。半分寝ながらだったから、偶々ついていたのを流していただけだもの」「そう…」何だろう、どうしても奇妙な感じが拭えない。私はあの子供の声に聞き覚えがあるように思えてならないのだ。胸の中の何かを呼び覚ますようなあの声に。「何だか目が赤いね」よく見ると緑子の目が赤く充血している。まるで泣き腫らしたかのようだ。「昨日、中々眠れなかったから今日は寝不足みたい」「特に予定がないのなら、お客さんも来ないのだし部屋に戻って眠れば?」「それがそうもいかないのよ。今日、ランチの予約が入ったの」「そうなの?」全然、聞いていなかった。「朝、早くに電話があって受けちゃったから」「そうなんだ、じゃ、早めに掃除を済ませておくよ」「ええ、お願いします」
<悪夢―16へ続く>
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