スリランカ報告
合田です。クアラルンプールに戻りました。
戻り先を成田から福岡に変更したかったのですが、安いチケットはできないんですね・・ 羽田⇔福岡を片道分節約できるかと思ったのに。。まぁ、でも31日1日と大雪で福岡に降りられるかわからないようですし明日の朝一度東京に戻ります。
以下まだ途中ですし、簡潔すぎる書き方をしていますが経過報告です。
1月25日 記:合田
朝KLを出てスリランカへ向かいました。実質4時間の飛行時間なのですが、津波も飛行機と同じかそれよりも速いスピードで伝わっていたのですね。改めてそのエネルギーの大きさを認識しました。スリランカ航空のおねーちゃんは超態度悪くて、山口さんは「もう帰る」と怒ってました。
おいおい
着く前からこれじゃーやばいなぁ・・と心の中で思いつつ
まぁまぁとなだめてました。
スリランカに津波の支援のために来るとは、それまで想像もしてませんでしたが、とにかくほぼ1年ぶりのスリランカです。
空港は新ターミナルを大成建設が建築中ですが、旧ターミナルも中は新しくなっておりめっちゃきれいで、国際空港に見えるようになってました。
スリランカに12年住んでいらっしゃる湯ノ口さんとキルティーに迎えに来ていただき、コロンボ市内へ移動
空港からコロンボへの道路も新しく舗装されており、随分と快適になってました。
午後から現地NGOのNestのリーダーの一人であるDr.フルガラ氏(正確には奥さんがFounders)等とミーティング
Nestは長期のビジョンを持ったしっかりとした組織で、ビジョンに基づいて今日現在の困難を解決するためのサポートをして行くにふさわしい方々の集まりです。(詳細は別に改めて)
津波の被害を解決するについても、単に12月26日以前のスリランカに復元するのではなく、新しいスリランカを創造する一歩一歩をお互いに協力しながら進めていくことを約束しました。
山口さんは、初めての(54カ国目の訪問国)スリランカでしたが、フルガラ氏との話の内にご機嫌になってスリランカ航空での不愉快さはすっかり忘れてくれたので良かった良かったでした。。
1月26日 記:合田
朝からNestのメンバーと朝食を兼ねたミーティングのためにコロンボ市内から北に1時間ほど行った漁村に出かけました。
大変歓迎してくれてびっくりしました。
食事の後、被害地を見て回りました。奥さんと娘を亡くした方の、失われた家の跡地で、残された方と会いました。正直目を見るとこっちが泣きそうになってしまって、一緒に居るのがつらかったです。
いくつかの場所を見て回りましたが、破壊された跡地には生活の面影の残骸が残っており、何事もなかったかのような天気と出迎えてくれた人たちの笑顔とのギャップが激しかったです。
突然、一人の老人から結構問い詰められたのですが、彼は「なぜ他の家だけを見て、自分の家には見に来ないんだ!?」と言うのです。
彼は見た家だけに何かの支援をするんじゃないかという心配をしていたのですが、実際アメリカを通じてキリスト教徒には支援が届くけど、仏教徒やイスラム教徒には支援が来ていないとか、支援を餌にキリスト教徒への改宗を進めているのではなどという憶測(事実もあるのかもしれませんが・・)も交じり合いひがみねたみ、ぶつけようのない悲しさストレスによって彼も参ってしまっているのだろうと感じました。
お昼に、コロンボ市内へ戻り漁業省へ(副)大臣との会談へ向かいました。
(副)大臣は前のミーティングが長引き(予算を確保するためのミーティングと言ってました)結局秘書である国家海洋資源調査開発機関(NARA:National Aqatic Research and Development Agency)のチェアマンでモラトワ大学理事のDr.カピラ氏と会談して来ました。
全土における漁業分野での被害を取りまとめており、現時点での詳細被害内容を教えていただきました。
今必要とされているものは、・家・ボートや漁の道具・港の整備・魚の販売網の構築などだそうです。ある程度の大きさの船については、津波の後に全国に38箇所の修理所を用意したそうです(その一つは午後に見に行きました)。
午後コロンボから南のゴール市へ視察に行きました。
海岸線に沿って鉄道が走っているのですが、鉄道よりも海よりの建築物は全て全壊と言って良いぐらいでした。破壊された建物は、結構後片付けされており全てが飛び散ったままと言う状態ではなくなっていました。ただ、ひっくり返った船などの中には重過ぎるものなどはそのまま放置されていました。
漁港の傍の集落ではもとはかなりりっぱな建物だったのだろうと思われる跡地で子供を抱えたお母さんたちに会いました。みんなニコニコしてはいましたが、現実を受け入れていつまでも泣き続けずに前向きに生きていこうとするたくましさを感じました。
この漁港でも漁民たちの不満は高く、集まったものがちゃんと自分たちの手元に来るようにしてくれとかなり言われました。
合田です。クアラルンプールに戻りました。
戻り先を成田から福岡に変更したかったのですが、安いチケットはできないんですね・・ 羽田⇔福岡を片道分節約できるかと思ったのに。。まぁ、でも31日1日と大雪で福岡に降りられるかわからないようですし明日の朝一度東京に戻ります。
以下まだ途中ですし、簡潔すぎる書き方をしていますが経過報告です。
1月25日 記:合田
朝KLを出てスリランカへ向かいました。実質4時間の飛行時間なのですが、津波も飛行機と同じかそれよりも速いスピードで伝わっていたのですね。改めてそのエネルギーの大きさを認識しました。スリランカ航空のおねーちゃんは超態度悪くて、山口さんは「もう帰る」と怒ってました。
おいおい
着く前からこれじゃーやばいなぁ・・と心の中で思いつつ
まぁまぁとなだめてました。
スリランカに津波の支援のために来るとは、それまで想像もしてませんでしたが、とにかくほぼ1年ぶりのスリランカです。
空港は新ターミナルを大成建設が建築中ですが、旧ターミナルも中は新しくなっておりめっちゃきれいで、国際空港に見えるようになってました。
スリランカに12年住んでいらっしゃる湯ノ口さんとキルティーに迎えに来ていただき、コロンボ市内へ移動
空港からコロンボへの道路も新しく舗装されており、随分と快適になってました。
午後から現地NGOのNestのリーダーの一人であるDr.フルガラ氏(正確には奥さんがFounders)等とミーティング
Nestは長期のビジョンを持ったしっかりとした組織で、ビジョンに基づいて今日現在の困難を解決するためのサポートをして行くにふさわしい方々の集まりです。(詳細は別に改めて)
津波の被害を解決するについても、単に12月26日以前のスリランカに復元するのではなく、新しいスリランカを創造する一歩一歩をお互いに協力しながら進めていくことを約束しました。
山口さんは、初めての(54カ国目の訪問国)スリランカでしたが、フルガラ氏との話の内にご機嫌になってスリランカ航空での不愉快さはすっかり忘れてくれたので良かった良かったでした。。
1月26日 記:合田
朝からNestのメンバーと朝食を兼ねたミーティングのためにコロンボ市内から北に1時間ほど行った漁村に出かけました。
大変歓迎してくれてびっくりしました。
食事の後、被害地を見て回りました。奥さんと娘を亡くした方の、失われた家の跡地で、残された方と会いました。正直目を見るとこっちが泣きそうになってしまって、一緒に居るのがつらかったです。
いくつかの場所を見て回りましたが、破壊された跡地には生活の面影の残骸が残っており、何事もなかったかのような天気と出迎えてくれた人たちの笑顔とのギャップが激しかったです。
突然、一人の老人から結構問い詰められたのですが、彼は「なぜ他の家だけを見て、自分の家には見に来ないんだ!?」と言うのです。
彼は見た家だけに何かの支援をするんじゃないかという心配をしていたのですが、実際アメリカを通じてキリスト教徒には支援が届くけど、仏教徒やイスラム教徒には支援が来ていないとか、支援を餌にキリスト教徒への改宗を進めているのではなどという憶測(事実もあるのかもしれませんが・・)も交じり合いひがみねたみ、ぶつけようのない悲しさストレスによって彼も参ってしまっているのだろうと感じました。
お昼に、コロンボ市内へ戻り漁業省へ(副)大臣との会談へ向かいました。
(副)大臣は前のミーティングが長引き(予算を確保するためのミーティングと言ってました)結局秘書である国家海洋資源調査開発機関(NARA:National Aqatic Research and Development Agency)のチェアマンでモラトワ大学理事のDr.カピラ氏と会談して来ました。
全土における漁業分野での被害を取りまとめており、現時点での詳細被害内容を教えていただきました。
今必要とされているものは、・家・ボートや漁の道具・港の整備・魚の販売網の構築などだそうです。ある程度の大きさの船については、津波の後に全国に38箇所の修理所を用意したそうです(その一つは午後に見に行きました)。
午後コロンボから南のゴール市へ視察に行きました。
海岸線に沿って鉄道が走っているのですが、鉄道よりも海よりの建築物は全て全壊と言って良いぐらいでした。破壊された建物は、結構後片付けされており全てが飛び散ったままと言う状態ではなくなっていました。ただ、ひっくり返った船などの中には重過ぎるものなどはそのまま放置されていました。
漁港の傍の集落ではもとはかなりりっぱな建物だったのだろうと思われる跡地で子供を抱えたお母さんたちに会いました。みんなニコニコしてはいましたが、現実を受け入れていつまでも泣き続けずに前向きに生きていこうとするたくましさを感じました。
この漁港でも漁民たちの不満は高く、集まったものがちゃんと自分たちの手元に来るようにしてくれとかなり言われました。