なぜ多くの音楽系メディアは西城秀樹を見過ごしてきたのか

――5)カバー曲の軽視・歌唱の軽視

 

 

80年代半ばから始まったJpopブーム。

 

 

80年代後半から90年代、音楽業界はJpopバブルに沸き、ミリオンセラーが相次いだ。

前述のように、ほとんどがバンドやグループ、シンガーソングライターだった。

 

昭和の頃のプロの三権分立で成り立つ歌謡曲ではなく自作自演が主流になった。

ドラマやCMとタイアップできれば次々に新曲から大ヒットが飛び出した。

 

平成後期以降から現在のようにカバー曲ばかりになった状態からすると驚くほどだが

Jpopバブルの頃は「カバー曲」は冷遇、 もしくはカバー曲は真っ当な音楽家は歌わない、とされていたようだ。

 

 

 

 

ラジオ番組などではよく様々なミュージシャンが

「カバー曲は儲からない」

と暴露したり、カバーシリーズが売れたら売れたで、自分の曲はないのかと言われ
中断した人もいるようだ。

 

 

 

当時からずっとカバー曲シリーズを出していたこちらのミュージシャンも

「カバーをするというと、曲が書けなくなったのかと言われ、周囲から相当な抵抗があった」
とよくラジオ番組などで言っていた。


「日本にカバーなんて言葉がなかったいい時代、
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。

書かれたものだけが作品ではなく、表現されたものそれぞれも「作品」という概念
が普通だったピュアでおおらかで高民度だったシーン。


便宜上使ってはいますが、カバーなんてカテゴリー分けは日本の、
それもポップスだけです。

クラシックやジャズ、ラテン、演歌の人が「カバー」ができないと
ミュージシャンとして論外です。



とある。

 

 

彼はカバー曲シリーズを発表するためにそれまで相当大変だったようで、

「カバー曲を格下のようにみなす、その考えそのものが日本の音楽文化の劣った側面だと断言できる」

とよくラジオ番組で言っていた。


確かに。


クラシックもジャズも日々過去の名曲をカバーすることで鍛錬し、名演奏があり、人々はその演奏に酔いしれる。
そして日本でも、↑にあるように、Jpopブームの前までは洋楽のカバーが普通であった。
平成後期以降、今はまたカバーが急増しているが、これを劣ったモノ、なんだ自分の曲じゃないのか、と感じている人も多いのではないだろうか。


そもそも江戸末期、日本に西洋音階の音楽を導入し始めた頃は
もちろん日本人の作曲の楽曲などごくわずかであるがために
西洋列強の世界的動乱の中でなんとか国力を上げるべく
世界的言語である西洋音階を大衆に教育すべく
外国曲に日本語歌詞をつけた楽曲を広めていった。


「蛍の光」がスコットランド民謡であることは有名な話だが、
「仰げば尊し」も2011年に発見された事実として、1871年に米国で出版された
楽譜に原曲が発見されたものだそうだ。
(※参照1) 今となっては外国曲とは思えない、戦前生まれのおじいさんおばあさんが 歌い涙する楽曲は、アメリカでさえ有名になっていない楽曲なのに日本でこれだけ歌い継がれる名曲となっているのである。

昭和に入ってからはジャズがアメリカから入ってきて日本でも流行。

 

戦前はダンスホールで歌に合わせて男女が踊る社交場になり
戦中は出征する兵士に向けての慰安演奏会があり、
戦後は進駐軍相手にジャズの演奏会があり、そこから出てきた
ステージで歌って聞かせられる名歌手が日本のスターになった。
歌っていたのは多くがジャズのカバー曲だった。

 


その時は、より広く大衆の心をつかむ楽曲を選定し
より広く皆に楽しんでもらえるよう編曲し、客層に合わせて 演奏、歌唱していたのだろう。


日本人にとって心地よい楽曲を発掘するということは、 日本語のリズムと日本人の心がわかる優れた音楽家しかできないことだ。
こうやって歌は、音楽は継がれてきた。

 

その流れを汲んで60年代70年代は、民謡や演歌とともに洋楽のカバー曲、ジャズに加えてポップスやロックのカバーを歌手が歌うことが増えて行った。

 

当時は ステージでの歌唱 、今でいう 「ライブ」 が

音楽家の主な仕事であり、その中でも最も売れっ子の歌手の

「ライブ歌唱」を日本中の多くの大衆が見ていた、テレビ番組で披露していた。

 

限られたファンの前で披露するのではなく、日本中の老若男女がみていた。
しかし、高度経済成長期で、徐々に様々な音響機器、電子機器、ラジオやテレビが変わっていくにつれて

ステージ上での歌唱よりも、「スタジオ録音」「自作自演」がポップス系のミュージシャンの主流とされ
カバー、表現が一段落ちるものとみなされていったような気がする。
 

Jpopムーブメントはその時代に起こった。

 


要するにバブル経済の中

「自作自演のスタジオ録音が商業音楽として最高位」

という判断基準に変わったようだ。


同時に、

 

「音楽表現」「歌唱表現」をする「歌手」

また

「カバー曲を歌うこと」「表現すること」

が軽視されていったと思う。

 

その理由の一つに、おそらくだが、高度経済成長期、すべての流行が激しく移りゆく中で、

聴衆も新しい曲を聴くことを望み、元々知っている曲を聞くことを望まなかったということもあるのかもしれない。
 

 

そうして 「自作自演でヒットを当てた人がえらい」

という認識に変わり、Jpopムーブメントの中で「音楽表現」「歌唱表現」が軽視されていった面があるのだと思う。

 

 

元々芸術はお金で測れるものではない。スポーツのように数字で結果が出るものでもない。
 

 

数字が出るのは、ビジネスとしての金の大小、売り上げのみである。

 

バブル経済の中ですべての金額が大きくなっていく中、商業音楽の文化的側面、芸術的側面が徐々に無視され 売上金額、売り上げ枚数、「数字」が業界の基準になり、大衆もそれをそのまま受け取ったように思う。
時代が異なれば、社会背景も異なる、数字を一般化することなどできないのに。
 

 

カラオケブームが始まり、歌えないアイドルがテレビ番組で多くなり出したころ

「歌のうまさなんて関係ない、売れたらOK」と豪語する司会者の言葉を

テレビで聴いたという人もいるくらいである。

 

 

そして70年代にデビューした歌手は、隅に追いやられ、あまり営業に力を入れてもらえなくなった。

それはおそらくこのような収益体制の影響は大きいのだろう。

 

(参照2)みずほ銀行 コンテンツ産業の展望 という資料の中の音楽産業の項より) これはもしかしたら日本の中でも80年代半ばで体制が変化したのではないかと思うが 今のところ素人の私では調べられていない。

 

日本と米国とでは音楽産業においての収益体制が大きく異なる。

 

日本の場合は原版印税が大きく、歌唱印税が極端に小さい。

そしてレコード会社、プロダクション、出版社に縛られているようだ

 

米国の場合はアーティストが個人事業主として、アーティスト主導の動きができるように

見えるがどうだろうか。

 

 

日本の音楽産業収益体制

 

米国の音楽産業収益体制

 




ちなみに西城秀樹がデビュー当時から、敬愛し、目指していたエルビスプレスリー(Elvis Presley)
のヒット曲はすべてエルビスの作曲作詞ではない。
さらにヒデキがよく言及していた、フランクシナトラも同様である。

しかし、彼らの歌唱によって広まり名曲として有名になった曲は
「プレスリーの曲」「シナトラの曲」と言われている。

 

さらに日本でも多くの人が名前と歌声を知っている

 

ホイットニーヒューストンセリーヌディオンも作曲はしていないが、
グラミー賞シンガーと呼ばれ名声を得ている。

エリッククラプトンの「Change the world」
多くの人がクラプトンの自作自演だと思っているだろうが、
トミー・シムズ、ゴードン・ケネディ、ウェイン・カークパトリックが制作した楽曲で
カントリー歌手のワイノナ・ジャッドが1996年にアルバムに入れた曲で、
それを同年、ブルースギターで編曲し歌ったクラプトンの曲が大ヒットしたのである。
クラプトンがグラミー賞をとったのは「カバー曲」なのだ。
 

 

 

米国・グラミー賞は1959年5月に第一回が始まったもので、今もなおアメリカでは音楽系の表彰では最も権威あるものとされている。

日本でも「グラミー賞」創設に啓発されるかたちで
1959年12月に日本レコード大賞が創設されているが、
1979年のレコード大賞は多くの人が覚えている逸話がある。

1979年 西城秀樹のヤングマンは空前の大ヒットを記録した。

 

 第10回日本歌謡大賞
 第8回FNS歌謡祭・グランプリ
 第12回日本有線大賞・有線音楽賞

 

など賞を総なめ状態にし、歌いながら観客も同時に簡単に踊るという

日本では初めての観客参加型の歌で大きなブームを巻き起こした。

 

しかし日本作曲家協会が主催の日本レコード大賞は「外国のカバー曲は対象外」ということで

「勇気があれば」という別の曲でノミネートしたために受賞できなかった、とされている。

 

 

その時のことは私自身は子供でおぼろげにしか覚えていないが

少し年上のこの人たちは鮮明に覚えているようだ

 

https://chuun.ctv.co.jp/press/5166/


今回の『太田上田』は2018年5月に亡くなられた西城秀樹さんについてのトークから始まります。 「こんなにショック受ける?っていうくらいショックを受けたよね」と太田さん。
お二人にとっても西城さんは子どもの頃の憧れのスターでした。

 

話題は『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』がヒットしていた時のこと。
西城さんがレコード大賞を取ると思っていたお二人でしたが、その時のレコード大賞はジュディ・オングさんの『魅せられて』でした。
泣き崩れるジュディ・オングさんをステージまで連れて行ったのは西城さんでした。
そんな西城さんの姿を見て
「秀樹さんかっこいいなあ」(上田さん)
「男らしかったよね」(太田さん)
と当時を振り返るお二人。)

 

40年も前になると、自分がやったことでさえ忘れていることも多い。ましてや子供の頃のことだ。

それでも40年も前のことを今もこの「事件」を思い出せる人々がたくさんいるということは
それだけ当時の人々に衝撃を与えたということだろう。

 

作曲家協会、日本の音楽家は、日本では西洋音楽を取り入れた歴史が浅いのだから
日本の作曲家を支援していくべきだという考えがあったのは理解できる。

しかし、あれだけ盛り上がっていたレコード大賞、老若男女誰もが
年末に盛り上がっていたあの時、あの年の西城秀樹はすべての大賞をとり
誰もがとるだろうと思っていた、あの時に、水を差すことになったような気がする。
その当時から作曲家協会自身が、カバー曲を貶めていたとも言える。

日本の作曲家の楽曲であっても、外国の楽曲であっても、とりまぜて優れた楽曲を日本で広めていくことで

本来は音楽が豊かになっていき、日本でも作曲者が増え、日本の音楽が増えて
いけばよかったものの、自作自演の片一方だけを持ち上げ、
音楽表現における歌唱表現、を重視しない、というきっかけになったのではないかとも思う

 

次章は日本のレコード大賞とアメリカのグラミー賞も調べてみる。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

更新が遅くなってしまって申し訳ありません。

なかなか書きづらくなってしまい、時間がかかってしまいました。
 

 

こちらの記事は、秀樹さんの音源復刻に向けて、 関係者の方々へみていただくための資料まとめレポートです。
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