もっとも、エピクロスが批判する、私たちの心の平安を乱して不快や苦悩をもたらす各種欲望とは、私に言わせれば、偽の利己主義に囚われた(=誤った)欲望であり、真の利己主義に適った欲望を追求する限り、私たちは利益(=喜び、快楽)を獲得するのみで、不利益(=苦悩、不快)がもたらされる(=快楽主義のパラドクスに陥る)ことはないはずなのですが……。
ただし、この世から悪(=真の不利益・不幸・不快・苦悩……)をなくし、善(=真の利益・幸福・快楽・喜び……)で満ち溢れさせるためには、全ての人が、いついかなる時と場合においても、どうすることが自分にとって真の利益であるか――ならびに、どうすることが自分にとって真の不利益であるか――を、正しく見極めなければならないわけですが、私たち人間は全知全能の神ではないのだから、そのようなユートピア的人格の実現は不可能だとされたのでした。
すなわち、もし仮に私が、真の利己主義という理念に沿った実践行為の、限りなく理想的な体現者たり得るとしても、世の人々の多くは、偽の利己主義に囚われた愚かな行為選択ばかりしているのです。すると、どうなるかと言えば、偽の利己主義に囚われた愚かな行為選択を私がほとんどせず、逆に真の利己主義に適った賢い行為選択ばかりするのを見て、世の多くの人々は、その愚かさ故に自分たちにはできていない善行ができている私に、激しい劣等感を抱くはずです。そして、その劣等感を自ら慰めるために、圧倒的多数派という集団(=衆愚)の力によって、私をバッシングし始めることでしょう。それは、陰湿・陰険なイジメの様相を呈するはずです。いつの時代も圧倒的少数の賢者は、圧倒的大多数の衆愚によって弾圧されるというのが、世の常ではありませんか!
すると、やはりエピクロスの言うように、世の人々との社会的交流からはなるべく身を遠ざけ、ただ一人、安心立命の境地(=アタラクシア)を求めて、山奥にでも引きこもって仙人のような生活をすべきだというのが、私のように真の知性を獲得してしまった賢者にとっては、唯一の正しい生き方なのかもしれません。なんとなれば、世の人々の多くは、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念が真理であることを、【理解】はできても【実践】はできない(=実践するだけの真の知性がない)からです。
しかし、私は道徳哲学者なのですから、やはり浮世離れした仙人のような生き方をすべきではないのです。なぜならば、「道徳」とは【社会的な倫理規範】のことだからです。すなわち、道徳哲学は社会(=人倫)を前提してこそ、その学問的存在意義があるのです。俗世間との交流を絶って、山奥に一人引きこもって自足するを良しとする仙人のような生活は、道徳的とは言えません。いや、そもそも他者との交流が全くない状態で、ただ一人で生きている人には、「道徳」という言葉は、もはや何の意味も持たないのです。
ですから、やはり私たちは、エピクロスが奨励するようなアタラクシア(=安心立命)主義(=消極的快楽主義)ではなく、波乱万丈主義(=積極的快楽主義)であるべきなのです。ただし、ここで言う「積極的快楽」とは、あくまでも真の利己主義という理念をイデアとして憧れ、その不完全な影像を実践し続ける努力に矛盾しない快楽であることを忘れてはなりません。他者を不幸にする独りよがりな快楽は、偽の利己主義に囚われた快楽ですから、私が唱える積極的快楽主義とは全く相いれません。
