中村 覚之助(なかむら かくのすけ、1878年 - 1906年)は、日本の元サッカー選手?指導者。近代サッカーを初めて日本に紹介、その普及に貢献した。和歌山県出身。
目次
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1 経歴
2 JFAのシンボルマーク
3 関連項目
4 外部リ ヘッドフォン (beatsヘッドホン )ク
経歴[編集]
1878年(明治11年)、和歌山県那智勝浦町浜ノ宮生まれ。
1899年(明治32年)、和歌山師範学校(現?和歌山大学教育学部)を卒業。宇久井尋常高等小学校(現?宇久井小学校)で教師となるが、わずか1年で退職。
1900年(明治33年)、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)に入学。
1903年(明治36年)、英国の本を翻訳?編集して日本最初のサッカー指導書「アッソシェーションフットボール」を東京高等師範学校蹴球部の名で出版。また、ア式蹴球(しゅうきゅう)部を創設。これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであると言われている。
1904年(明治37年)2月6日、東京高師のチームは、4年生の中村の企画で横浜に遠征し、外国人クラブと日本で最初のサッカー対外試合をした。このときの記念写真が日本サッカーミュージアムにある。