親友がホスピスにいたのは、東日本大震災の翌年の3月。
子宮癌からリンパに沿って転移し、膀胱ガン 肺癌 そして脳にも多少の転移が認められていた。
癌が見つかってから3年と9ヶ月で他界した。できたばかりのホスピスに入れたとき、そこは明るい個室で広々としたスペースがあり、来客用のテーブルもあった。親友のおばさまが毎日毎日たくさんのお弁当を作って朝から晩まで付き添っていてくれた。親友は、あれやこれやと私たち友達に欲しいものを言ってくる。携帯のオイルの香料が使える加湿器。
お風呂に入れるから良い香りの入浴剤。何より。いつでも会いに来てねと。
毎日毎日、キャーキャー騒がしい病室だった。
私たちはメッセージボードを親友の目の前で作成していた。折り紙やら糊やら画用紙を持ち込んで鶴もたくさん折ったし変な写真やおかしい出来事をペタペタ張り付けたり、あーじゃないこーじゃないと賑やかだった。そろそろ、親友の好きな桜の季節だからと窓にはるデコレーションシール桜をペタペタ張り付けてベッドに寝たまま眺める空を少しでもと彩った。入れ替わり立ち代わり。ガンに効く水を持ってきてくれる人もいた。柔道整復師の友人はむくんでしまった足にクリームを塗り塗りしながらマッサージもした。ニコニコしながら会話に参加し、アイスが食べたいって言われて買ってきた友人のアイスの実を美味しそうに食べた。昔から、氷をガリガリと食べる親友だった。貧血だったのね。
お昼にはおばさまが持ってきてくれたお弁当をみんなで美味しく頂いた。
仲間は全員葬儀関係者だったので、時には
棺は何色がいいの?ピンクの布張りね❗
なんて会話がそこここで繰り返され、さすがのおばさまも初めは『不謹慎な…ガーン』と遮っていた。
それでも、当たり前のように葬儀の段取りに話が及ぶので、ついに観念してくれて、どれどれ?どんなのがいいの?と会話に加わってくれるようになり、わたしはこっちがいいけどなーなんて言おうものなら、じゃあおばちゃんの時はコレで決まりね!などと切り返され、やっちゃった~って顔をして、みんなでわあーっと笑ったりした。ある時、おばちゃまと二人きりになったとき、ありがとうね、と言われて驚いた。いえいえこちらこそ、不謹慎で申し訳ありませんと2人でペコペコ。でも、大事ね。だって、死んじゃうのよね、あの娘は?って。絶対に確認し合わなかったワードが飛び出て2人で堪えきれずに肩を抱き合って泣いたんだ。
意識が遠のき
呼吸が荒くなり
もう、なんにもわからなくなってしまった彼女。
私たちは親友から、かけがえのないお別れの時間を与えてもらっていた。
裁縫が得意な友人は、親友の死装束のピンクの花柄のドレスを縫い上げていた。
まだ、桜の開花宣言前だったけど、花屋で枝振りのいい桜と菜の花を飾った病室だった。
映画『さくらん』のワンシーンを親友は愛していた。
メッセージボードは出来上がり、家族も友人も一同に介していた。
最後は家族だけで。。と、我々は退室し。
3時間ほど後、病院の家族から迎えに来てと連絡が来た。
寝台車で彼女を自宅に送り届けて、明け方帰宅して、その日の昼頃、桜の開花宣言を聞いた。
さくらが、咲いたよ。よかったねー。
満開の桜の中でお葬式だよって、想った。

伯母がホスピスにいたのはそれから2年後のことだ。
自転車にぶつかられて転倒し肋骨にヒビが入ってしまった叔母は自宅で療養していたが、なかなかなかなか治らない。痛みが収まらない。あまりに長期間痛むので再度受診したところ肺に癌が見つかった。骨折だとばかり思っていた。信じて疑わなかったがまさかの癌宣告。手の施しようがないくらいに、冒されていた。ホスピスに入ったと聞きお見舞いに行った。まず言われたことは、葬儀は地元の葬儀社にお願いするから、という言葉だった。
わたしは言葉を失い。何を話したかも覚えていないで帰宅した。
そんなことはどうでもいいのだ。
もう一度会いに行きたい。痛み止で、そのうち意識が朦朧としてしまうことは理解していた。一言でも、お礼が言いたい。
花束を抱え、病院に向かう途中母から連絡が来た。家族の意向で面会謝絶にしたから一切会いに行かないように、との連絡だった。
何故⁉️
叔母はとても気遣いの人で、長々と居座る近所の人からのお見舞いなどで疲れてしまったとのこと。でも、もうすぐそばまで来てしまっている。5分だけでも。。というとあんたが勝手な真似をすると私が言われるんだからね💢と逆ギレされ電話を切られる。迷いなく病院に向かい、受付で記名し病室へ。お花を届けて、叔母さんいままでありがとうございました。何度も救っていただきました。と、お礼を伝え、病室を後にした。当然、この一件は親族中の騒ぎとなり、元々ワルい子だったレッテルを保つこととなった。
お葬式のあいだ、わたしはひっそりしていた。
ただただお経に耳を傾け手を合わせて、葬儀は終わった。

義妹がホスピスにいたのはついこの間のこと。
悪性リンパ腫で、わかってから1年9ヶ月ほどの闘病生活だった。
ホスピスって、何にもしてくれないのね、もっと至れり尽くせりなのかと思ってた、と言われて、
え?何がしてもらいたいか伝えた?と聞くと、そういうんじゃなくて。。という。
どんな感じを想像していたの?と聞くと
もっと至れり尽くせり。。という。
わたしは、あれれ?ホスピスってどういうところなんだっけ?と再確認した。
治すことを目標にしている患者さんと
同じ目標を目指せなくなっている体の患者さん
治療すること、ができる患者さんと
もう、治療することができない患者さん
もう治らないのに、直面するのは激しい痛みや息苦しさや様々に変化する症状に対する不安ばかり。
せめて、痛みや不安をなんとか和らげたい。痛みや不安が遠退けば、怒りや苛立ちが収まり不安も少し遠退くかもしれない。そうしたら、ちょっとお外に出て深呼吸してみたいとか、好きだった紅茶をゆっくり飲みたいとか、マニキュア塗ってみたいなーとか、いつもの自分が戻るかも。紅茶を飲みながらあれこれと、つい考えていたら、何故私がこんなことに?と、突然言い様のない怒りがこみ上げてきた。この、辛い気持ちを口にしたい。振り絞るように話すだけ話したら、少しスッキリした。まあ、仕方ない。誰のせいでもないもの。そういえば、家族のみんなは今何を感じて何を思っているのかしら?自分の口からは言い出せないけど、家族の気持ち、聞いてみてもらいたいなー。直接だと言いづらいだろうし。。。
痛みを取り除いてくれるのは医師。
散歩に付き合ってくれたり紅茶をいれてくれたり辛い気持ちを聞いてくれたり家族との橋渡しをしてくれるのはスタッフさん。チーム一丸となって、死期が迫った患者さんのクオリティオブライフを改善するための施設。。。
そうだ。そうだった。そうそう。
書かれているのは、『人として尊厳を保ちながら家族と過ごすなど、積極的に生きるためのサポートをしてくれる場所』ということ。

オムツは絶対に嫌!と言えば、なん十回ナースコールを押そうとも駆けつけてくれる。間に合わなくて粗相しても毎回きちんと取り替えてくれる。本人が、トイレにいくのがしんどいからオムツにしてくれと言うまで手伝ってくれる。
外の空気が吸いたいと言えば、ベッドごと、屋上に運んでくれて外に連れ出してくれる。うっすら遠くに富士山が見えたりしてラッキー❗と思ったりしてよかったねー🎶なんて一緒に笑う。

義妹は、死に囚われていた。死ぬのは嫌だ死ぬのは怖い。当たり前のことだ。それを口にすればよかったのだ。当たり前なんだから。
病と戦うなんて気持ちは更々ないと、初めから宣言していた。
誰にも慰めることができないくらい絶望していた。頑なな絶望だった。
ホスピスに行かず、治療法がなくても病棟で抗がん剤の点滴を打つことを望んでいた。彼女に輸血は欠かせなかった。
延命治療はしない、という選択と、矛盾していたのだ。たぶん。
本心は他の誰にもわからない。
時を戻すことも叶わない。
いつからか、本当のことを言っていいんだよ!といつも声をかけた。すると、死後のことについての遺言が多くなった。
最後、何回か外泊許可がおりた。
あれが食べたい、コレが食べたい、を全部揃えてみんなで一緒にご飯を食べた。美味しい美味しいと、たーくさんたべた。忘れられない笑顔だ。

ホスピスって、人が最後を迎えるには本当に良い場所だとばかりおもっていた。信じて疑わなかった。だけど、そうではなかった。
ホスピスに入りたいと言う意思。
こうありたいと願う最後が、ぼんやりとでもいいから思い浮かべることのできる人、にとってはありがたい場所に他ならない。
けれど、そういう人ばかりではないのだ。
直面した死をもて余したまま一歩も動けずにいる人もいるのだ。強いとか弱いじゃない。良いとか悪いでもない。
当然、医師も看護師も何度も丁寧にホスピスについての説明をしてくれていたはずだ。ただ、具体的なそこに移る自分の姿が思い描けずに、新たな不安を抱えたまま、何もかも曖昧なまま、時は過ぎ、何も考えられないまま。
しかし、家族は充分に時と心を差し出して、彼女の最後を看取ったのだ。

ホスピスで過ごす時間。
いろんな時間が流れているんだよ。
みんなみんな、精一杯にね。

明日死んじゃうかもしれないけど。。。
そうしたらホスピスは体験できないわたしです。