宗教の自由。
そうです。日本国民は自分の好きな宗教が選べます。なんにも選ばなくてもOKです。
ちなみに私は、俗に言う無宗教です。
私の両親の場合。父親の実家は創価学会。現在父親は実家の創価学会は受け入れておらず無宗教。母親の実家は法華宗。現在母親は新興宗教にどっぷりハマっています。
そして、わたしといえば。
はじめの結婚相手は曹洞宗。2度目の夫は真言宗。
次男ですから墓守りはしなくてよい。そして、夫も無宗教。
私たち夫婦はそれぞれ、先祖の墓や仏壇に手を合わせることや、年末年始に氏神様に初詣に行く、くらいの宗教心は持ち合わせています。
わたしが幼い頃。
自分の回りに特定の神様・仏様を拝む習慣はありませんでした。家にはお仏壇もなかったので。
いつの頃だったか…
母親が新興宗教に入信し、そこから幼心に不穏なものを感じていました。
教祖はこの世の人。人間。
広い道場に連れていかれ唱え言葉を唱える。
浄化する、とか、お清めとか、聞きなれない言葉を耳にし、光が届いているとかいないとか…届いている人は生き、届いていない人は死ぬ。
変な歌を歌い、変な音を聴き、祈り、陶酔したような母の顔は火照り、よかったね、と言う。
まったくわからなかった、その時間、その空間。
気持ち悪い。。。としか思えなかった。
嫌悪感しかない。
それでも、自分の生活は変わらず過ぎていく。
朝に夕に、一緒に祈りなさいと言われるのがとても嫌だったけれど。
逆らうよりやってるフリ。
それでよかった、
物心ついてからは、はっきりと、『神様は嫌いだ』と認識。良いことがあっても神様のお陰。
悪いことがあってもあなたのために神様が与えた試練、神様はわかってらっしゃるのよ。
へっ?何が(´・ω・`)?
んなわけあるかい😠💨と心の中で毒づく。
神様がいても。
目の前の両親はいつもいつも大喧嘩をし、母は苛立ち父は私を殴る。
お金がないと、母はパートに出始めたが、その頃から見知らぬ男性の影がチラチラ見え隠れする。
父は私に興味も無さそうだしいつも家にはいないし誉めてくれることもない、叱られるばかり。
母は神様に益々傾倒し、なのに神様にもたらされるはずの幸福からは遠退いていく。
なんでうちには、こんな変な神様がいるんだっけ?母は何を信じているんだろう?
まったくわからないままに過ぎていく毎日。
神様って、空から私たちを見、どこにでもいる、いつでもいる、大嫌いな神様がいつも私を見張ってる。そんなイメージを抱えたまま成長した。
子供なりに、悩みがあったりもする。
母に話をすると、母が良いと判断したことはすべて、それは神様のお陰だねーと言われて、良くないと判断したことは全て、神様が与えた修行なんだから守られてるのよ、大丈夫、と言われて話は終わる。
私には、共感も、なんのアドバイスも与えられずに終わる。
激しくなる喧嘩。
荒む生活。
発信しても受け止めてもらえないもどかしさ。
いつしか私は、嘘つきになっていた記憶がある。
小さな嘘。
いまならわかる。
気を引くための、嘘。
父も母も私のことなんか見ちゃいない。
自分のことで精一杯。
父も母も若かったのだ。
父も母も苦しかったのだ。
理想通りにならない現実から、逃れたかったのだ。
キリスト教は人は神の子
命を全うしたらキリストのもとに帰るから祝福。
残されたものには慰めがある。
分かりやすい。
神道も、人は死ねば八百万の神となる。
分かりやすい。どーしても選ばなくてはならないとするならば、私は神道がいい。
わたしは共感が苦手だと言うことに気づいた。
そうだよねーわかるわかる。。と、相手に言ってあげられない。すぐに解決策を見いだそうとする。
それが、頼りになる、場合もあったと思う。
けれども、解決を望んでいない人の方が多いのだということを最近になって理解した。
愚痴をこぼして共感してもらい、あなたは頑張ってるわよ、と言ってもらいたいだけなのだ。
そんな旦那からは逃げ出した方がいい!とか言ってしまうと、でもーあたしー生活力ないしーとか言い出す。繋がれていたはずの手を急に離されたってどーしたらいいかわからないもーん、とか言い出す。手を離して置き去りにしようとする相手にしがみついて何か良いことはあるのか?生活力って、働けばなんとかなる。そうこうするうちに、黙り始める相手。相手も、相手を見てそういう話を持ちかけてくるのだ。だから解決策を見つけてもらいたくない場合はわたしから離れて行く。
色んな人が世の中にいること。
人それぞれなこと。
夫婦や親子のことは他人にはわからないものだと言うこと。
共感してもらって、自分が頑張っていることに意味があると頷いてもらえたらそれだけでちょっと気持ちも上向き元気と勇気が溢れてくる。
そんな簡単なことがわかっていなかった。
白と黒ではない。
自分の育ちに、欠落した部分があることを認めることができるまで長い時間がかかってしまった。
もったいないことをした。
私のここ数年の生きるテーマは『傾聴』であるが、傾聴の意味するところがやっと理解できた気がする。
解決策は本人が持っている。
聞く 聴く まず聴くのだ。
何度でも聴く。
そこでジャッジせずに聞く。
いまはその練習中。
宗教、というと
仏陀とかアラーとかキリストとか天照大神とか、そういうくくりにとらわれてしまいがちだけれども。
その教えの数々も受け取る側の理解によって様々な形に変貌する。
自分の心に棲む神の形が、結局はその人の神様。
もう、その人自身が神様なんだと言っても過言ではない。そしてその神様の名の元にジャッジされ、人生を、歩むのだ。神様だから相手からのジャッジは受け付けない。そういう神様っておっかない。
そんな神様、わたしはいらない。
もし、明日わたしが死んじゃったら。。。
蓮の花の上にピョコッと、なんてならないし
天使も迎えに来てくれないし(ネロとラスカルは迎えに来てくれてた)閻魔様にも裁かれない。
鼓動が止まり瞼を閉じたら『無』なのだ。