人形浄瑠璃を書くときのペンネームは、「福内鬼外」やった。

これで、「ふくちきがい」と読ませた。

もちろん、節分の「福は内、鬼は外」からとったのだ。

しかし、源内の頃(江戸時代中期)、節分というのは、1年でただ一度、大奥が開放される日でもあった。
言い換えれば、もちろん江戸城中には入ったことなどない一般民衆にとっても、淫蕩な気分の立ち込める日であったのだ。

そのあたりを、源内の「福内鬼外」も意識していたはずである。

源内は、このペンネームで8作の浄瑠璃を書き、9作目の途中で亡くなった。

安永8年12月18日(1780年1月24日)。享年51。

いちばんの当たり作は、最初に書いた「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」

これは現在も、浄瑠璃(文楽)でも歌舞伎でも上演されている。

生前に初演されたのが7作。没後すぐに8作目が上演され、20年もたってから未完の9作目が初演された。人気作家だったのだ。

それも、4世鶴屋南北などがあらわれる頃まで、半世紀ほど、「西の近松、東の鬼外」と呼ばれるほどの、江戸を代表する浄瑠璃作者なのであった。


「只今大変混み合って・・・」でお散歩ができないので、ひさしぶりにTバックステーションに行ってみた。

月曜日が、Tバックの「お題」の日だなんて、忘れてましたがな。