徳島には、三度行ったことがある。
一度目は学生時代。着の身着のままで四国を放浪した。
二度目は香川からの帰りに徳島市内に宿をとった。
三度目は、知り合いの披露宴に呼ばれたのだった。
香川には毎年二、三度行くのに、
なかなか徳島までは足が伸ばせないのであった。
もちろん、香川に行くのには鳴門を通り抜けるから、
徳島県内に足を踏み入れたことは何十回もあるのだ。
徳島駅前の背の高い椰子の木の生えた風景が気に入った。
南国的な風景には、問答無用でDNAが騒ぎ出す。
駅前のメインストリートの広さに、思わず感じ入った。
徳島市の規模に比べれば、意想外の広さだ。
もちろん、それは阿波踊りのため。
「ふむふむ」とひとりで納得しつつ、駅の周辺を歩き回った。
徳島に行って、見たいものがもうひとつあった。
「眉山(びざん)」である。
明治2年(1869)に生まれ、明治41年(1908)に死んだ作家がいる。
その生涯は、すっぽりと明治時代の中に収まっている。
彼の名前を川上眉山という。
どろどろで救いようのない人生を描き続けた私小説作家である。
彼のペンネームは、出身地徳島市内の山の名前からつけたのだという。
川上眉山のことは、太宰治の短編「眉山」で知った。
これも、太宰晩年のどろどろの生活を書いた小説である。
ただしそこには、最後の小説が吉本的ドタバタ喜劇の「グッド・バイ」であった太宰らしく、どことなく軽妙な笑いが漂っている。
ご承知のとおり、太宰は妻ではない女性と心中した。
誕生日の1週間前。正確には、6日前の未明。
近所に借りた書斎の文机の上には、朝日新聞に連載中の「グッド・バイ」の原稿とともに、いくつかの遺書が置いてあった。
投身した玉川上水は降り続いた雨で増水して捜索は難航し、紐できつく結ばれた男女の遺体が発見されたのは1週間後、太宰39歳の誕生日の朝であった。
太宰の妻は、夫のなきがらを家に入れることを許さなかった。
眉山は、書斎の中で血だるまになって発見された。
そのあとに連綿と続くことになる、日本の作家の自死の「はしり」である。
現実と虚構の入り混じった中での死ということで「夢幻的な自殺」と呼ばれた。
享年39歳。
文学史の中では、そんな荒涼とした風景につながる眉山である。
しかし、実際の眉山は、おだやかな徳島の風光の中に立ち、ゆったりと人間の営みを見下ろしていた。
少なくとも、ぼくには、そのように見えた。
考えてみれば、人間の一生などというものは、いずれもどこかしら荒涼としている。
そして同時に、どこかしら滑稽で、もの哀しい。
だから、思わず気持ちを寄り添わせたくなる。
たまさかなる死のかたちだけで、その人間を語ることは、しばしば当を逸している。
あるいは、外から見ただけで他人の生涯を語ること自体が、当を逸しているのかもしれない。
太宰は徳島に行っていない。
だから、実際に眉山を見たことはなかった。
生まれたのは明治42年(1909)。川上眉山の亡くなった翌年である。
それでも太宰は、眉山という人に多大な共感を抱いている。
小説「眉山」からは、そのことがひしひしと伝わってくる。
そしておそらく、さだまさしは、川上眉山も太宰の「眉山」も知り抜いて、『眉山』を書いたのだと思う。
彼は、へたな日本文学科の教員もかなわないくらい、日本文学をよく知っているので。
今度徳島に行ったときには、眉山にのぼってみようと思う。
由規さんのところに、眉山の話題があったので、思わずTバック。
なんだか知らんうちに、本業っぽい記事書いちまったぞ、っと。
一度目は学生時代。着の身着のままで四国を放浪した。
二度目は香川からの帰りに徳島市内に宿をとった。
三度目は、知り合いの披露宴に呼ばれたのだった。
香川には毎年二、三度行くのに、
なかなか徳島までは足が伸ばせないのであった。
もちろん、香川に行くのには鳴門を通り抜けるから、
徳島県内に足を踏み入れたことは何十回もあるのだ。
徳島駅前の背の高い椰子の木の生えた風景が気に入った。
南国的な風景には、問答無用でDNAが騒ぎ出す。
駅前のメインストリートの広さに、思わず感じ入った。
徳島市の規模に比べれば、意想外の広さだ。
もちろん、それは阿波踊りのため。
「ふむふむ」とひとりで納得しつつ、駅の周辺を歩き回った。
徳島に行って、見たいものがもうひとつあった。
「眉山(びざん)」である。
明治2年(1869)に生まれ、明治41年(1908)に死んだ作家がいる。
その生涯は、すっぽりと明治時代の中に収まっている。
彼の名前を川上眉山という。
どろどろで救いようのない人生を描き続けた私小説作家である。
彼のペンネームは、出身地徳島市内の山の名前からつけたのだという。
川上眉山のことは、太宰治の短編「眉山」で知った。
これも、太宰晩年のどろどろの生活を書いた小説である。
ただしそこには、最後の小説が吉本的ドタバタ喜劇の「グッド・バイ」であった太宰らしく、どことなく軽妙な笑いが漂っている。
ご承知のとおり、太宰は妻ではない女性と心中した。
誕生日の1週間前。正確には、6日前の未明。
近所に借りた書斎の文机の上には、朝日新聞に連載中の「グッド・バイ」の原稿とともに、いくつかの遺書が置いてあった。
投身した玉川上水は降り続いた雨で増水して捜索は難航し、紐できつく結ばれた男女の遺体が発見されたのは1週間後、太宰39歳の誕生日の朝であった。
太宰の妻は、夫のなきがらを家に入れることを許さなかった。
眉山は、書斎の中で血だるまになって発見された。
そのあとに連綿と続くことになる、日本の作家の自死の「はしり」である。
現実と虚構の入り混じった中での死ということで「夢幻的な自殺」と呼ばれた。
享年39歳。
文学史の中では、そんな荒涼とした風景につながる眉山である。
しかし、実際の眉山は、おだやかな徳島の風光の中に立ち、ゆったりと人間の営みを見下ろしていた。
少なくとも、ぼくには、そのように見えた。
考えてみれば、人間の一生などというものは、いずれもどこかしら荒涼としている。
そして同時に、どこかしら滑稽で、もの哀しい。
だから、思わず気持ちを寄り添わせたくなる。
たまさかなる死のかたちだけで、その人間を語ることは、しばしば当を逸している。
あるいは、外から見ただけで他人の生涯を語ること自体が、当を逸しているのかもしれない。
太宰は徳島に行っていない。
だから、実際に眉山を見たことはなかった。
生まれたのは明治42年(1909)。川上眉山の亡くなった翌年である。
それでも太宰は、眉山という人に多大な共感を抱いている。
小説「眉山」からは、そのことがひしひしと伝わってくる。
そしておそらく、さだまさしは、川上眉山も太宰の「眉山」も知り抜いて、『眉山』を書いたのだと思う。
彼は、へたな日本文学科の教員もかなわないくらい、日本文学をよく知っているので。
今度徳島に行ったときには、眉山にのぼってみようと思う。
由規さんのところに、眉山の話題があったので、思わずTバック。
なんだか知らんうちに、本業っぽい記事書いちまったぞ、っと。