明治の終わりは1912(明治45)年7月30日なので

本書の初版は明治末期発刊である。

大正時代は1926(大正15)年12月25日までなので

本書は大正末期の第24版である。

 

 

著者は

1)關根金次郎准名人八段:十三世名人襲位は1921(大正10)年

2)阪田三吉七段→八段

3)小松三香車五段→六段

4)藤川高藏盲人

5)只野桂龍さん

6)無名氏さん

7)馬場元七五段

8)福田箔昇齋四段

9)高橋荒太郎四段

10)勝浦松之助五段

11)德富左中次四段

12)(肥後)藤井又四郎さん

13)柾木利八 二段

14)(神戸)阪本香車さん

15)(大阪)森久藏さん

16)(大阪)北川太三郎さん

17)山口正太郎五段

18)谷口豐吉四段

19)小菅劒之助八段格

20)藤内源三郎六段格

21)竹内丑松七段

1)關根金次郎准名人八段を「講評」、

2)阪田三吉八段を「編纂」と除外して、

無名氏も除外して詰将棋出題者を数えて18名という

カウントと思われる。

 

 

目次。

1) 将棋雑学、

2)将棋訓言

3) 詰物

4) 詰物出題者の秀逸な棋譜

5)出題者等の列傳棋話

の構成。

 

●御城將棋

本因坊算砂さんと大橋宗桂さんが織田信長さんに

召されて御前対局したことに始まる。

増川さんは信長さんは違うと言っていたな。

優美の極みに達したのは三代目将軍時代。

六段以上が御城将棋を勤める。

六段以上を定めるには家元3家が協議し、

寺社奉行に届け出、老中に伝わり、

御城将棋の席で昇段の手合を許される。

協議に異議者があるときは「爭將棋」を行う。

将棋の場合は本因坊家で、囲碁の場合は大橋家で行う。

名人は将軍家の御指南役なので

上様御好み以外では御城将棋では対局しない。

へえ〜。

11月7日に寺社奉行に届け出、

11月11日より御前将棋の下指を行い、

11月17日本番当日は棋譜を並べて御覧に供する。

下指の11日から16日までは如何なる急用もしくは

親の危篤でも帰宅その他室外には一歩も

出ることを許されない。

大橋宗英さんは具合悪くなって駕籠で引き返し、

そのまま亡くなってますけれど。。

他の者も室内に入ることを許されない。

神棚にはお神酒を供し點燈を捧げて清浄を極める。

17日当日は明六つ時に登城し、黒書院に参列し…

200有余年間、1年として欠けなかったが

欠けてたはず。

幕府の瓦解と共に…

 

●將棋盤ノ事

これまでに色々な木材で作られてきたが榧が最上。

現在は徳川時代の御城将棋で使われた盤が模範。

御城将棋の盤は毎年新調していた。

御用盤師は年中諸国を回って榧の名木を探し、

乾燥させておき、役人に材の検査をしてもらい、製造に着手していた。

しかし、側面四方は黒漆を塗る掟となっていたので

検査を受けた良材は密かに他の所有者に販売し、

表面のみ綺麗な木を用い、誤魔化した盤を納めていたので

『拝領盤に上物無し』とは是等の事を云ひしなり。

本当にこんな心がけで盤を作っていたのか?と疑ったが

後に碁盤師熊須健司さんに伺ったお話と合致するので

事実と思われる。

 

●駒ノ事

象牙、焼物、南天樹などの材で作られた作例もあるが

音響、光沢の点で黄楊に勝る材は無い。

しかし、黄楊でも産地により質が異なる。

関東は米沢、会津より産する。

名古屋は木曽に産する。

西に行けば薩摩、筑前で

他国物では朝鮮、暹羅(シャム)に産する。

江戸駒と称し、提灯屋的な太く横広な書体を書いた駒は

奥州地方の木を用いており上等ではない。

頭の薄い小意気な名古屋駒は木曽の木を用いている。

この木曽黄楊と称するものは

普通の黄楊より硬いので同名異木ではあるまいか?

朝鮮、シャムの黄楊は軽く、光沢に乏しい。

筑前の黄楊は赤くて軽い。

薩摩産は我が国最上と称するもので

『牛骨抔(?)』を肥料として培養している。

朝鮮産は薩摩産の価格の1/3。

御蔵島等の名が出ないなあ。

伝わっている「王将、玉将説」は疑わしい。

大阪駒と称する安清さんは昔、書を良くした者と

伝わっている。

水無瀬兼成さんとの比較は分からないが

書道素人目には上手いように見える。

後水尾天皇宸筆駒の模造品があるが

駒天が薄くて盤を傷つけることが少ない。

盤を傷つけぬ方が良いという思想はあったわけね。

豊太閤時代は能書家に駒を書かせて家筋の駒銘とか

誇る風潮が全盛で、剃髪して世塵から遠ざかっていた

男爵の水無瀬さんが召された次第っぽい。

●将棋訓言

坐する際は盤を隔てて5寸(15センチ)。

スマホの全長くらい盤から離れろ&くっつけ、と。

手駒は扇子もしくは白紙に乗せて盤の右側に相手によく

見えるように置くべし。

昭和時代くらいまではサウスポーの子は

右利きに矯正する風習もあったと聞くし、

だから右側なのかなあ?

★玉將は早く要害の地位を選むべし。

※要害:地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所。

なるほど!

★玉脇には金銀の護衛無かるべからず。

★金は歩の頭に上ること大いに注意すべし。

★銀は千鳥に使うべし。

千鳥足に使えということらしい。

★對手の歩切れ見免すべからず。

★歩二つより大切にすべきこと。

1枚くらいは、細けーこたー良いんだよ?

★飛角の捨場所肝要なり。

★龍馬は手前にて使ふに利ありとする。

★龍王は敵地にて使ふに利ありとする。

★王は一手前に逃げ置くと名手なり。

★手前に歩を打つことを避くべし。

A)敵陣への攻めにその筋は歩が利かなくなるから

B)うっかり二歩の反則を犯しやすいから

のどっちだろう?

★駒は離れざる様進退すべし。

★持駒は諸方の當りを含んで打つべし。

直接手でなく、含みのある手をという意味か。

★持駒は既に打ちたる意氣にて指すべくして

容易に下すべからず。

これどういう意味か分からん。

★七五三筋及び端に手あること多し殊に五々の場所は

天王山なりとす。

★定法を離れて指すは終りに悪し。

★勝ちを欲せず敗れざることを心懸くべし。

●大橋宗桂さんについて。

幼名は吉田宗金(むねかね)。

宗慶(そうけい)と改め、織田信長さんより

駒名の「桂」の一字を賜り宗桂となった。

醫術を志し、天正8(1580)年に明国に渡った。

帰国後は刃圭(とうけい:医術や医者)に従事するも

天性将棋を能くするので織田信長公の召しに應じて

将棋所の本因坊日海上人と對局することとなり、

遂に将棋で世に立つこととなった。

本因坊算砂さんが初代将棋所という解釈なのかなあ?

「碁所」の誤植かなあ?

以来、豊臣、徳川に仕え、日海さんが致仕(引退)するに

及んで「名人将棋所」となって本因坊家の次席となった。

●詰将棋は百八號まで。

 

 

阪田三吉さん作も8問ある。

龍の押し売り。

 

 

角捨て。

 


ここから「馬鋸」みたいに

 

 

生飛車と龍で玉を追う筋に。

 

 

最後は金合いを要求し39手で詰め上がり。

とりあえず、阪田三吉さんが我流でここまで

ねじり合いのアクロバットな手まで読み切れる

ご棋力まで上達されたということは理解出来た。

 

 

次の問題。

阪田さんの出題は実戦形の断片を並べ、

アクロバットな指し手が登場し、

手数が伸びるように駒の配置を調整して

作られているように思う。

▲33銀~▲44と以下29手詰め。

 

 

中段玉の問題で桂合いから龍切りとかも含む39手詰め。

 

 

作為は解答の51手詰めみたいだが

33手の早詰めがあるっぽい。

●棋譜は全15局。

14局は関根金次郎八段の短評。

1局は「合評」となっており、どなたの評かは不明。