MITメディアラボ教授 石井裕



何 かのプレッシャーがなければ、必死さは生まれないと思っています。自由に研究していい、と言われて、本当にいい研究ができるかどうか。忙しいからこそ必死 になる。忙しさの中で必死にヒントを見つける。飽食の時代で恵まれすぎていることは、意外に不幸なことなのかもしれない。飢えがないからです。適度なプ レッシャーがあるほうが、実はいいんです。MITには、世界中から学生が集まりますが、厳しい競争環境の中でみんな必死です。目の色が違う。

 私は、多くの日本人が弱いのは、「深み」ではないかと思っています。哲学、と言ってもいいかもしれない。例えば、なぜ、という質問に答えられるか。な ぜ、その研究なのか。なぜ、自分は生きているのか。なぜ、自分という存在はあるか……。世界にどう貢献するのか、という大義をもっているかどうかです。 MITの学生たちが目を輝かせるのは、自分が作った技術やアイデアが社会に貢献し、社会に残るかもしれないのだ、という事実を知ったときです。見つめてい る視点が高い。だから小さな成功に満足することはない。小さな成功を守ろうとすることもない。一度の成功で満足もしない。

 人生は長くありません。私は常に死を意識しています。自分が作った技術の行く末をどこまで眺められるかもわからない。結果の収穫ができるかどうかもわか らない。ならば急がないと。MITを通して、これまで社会からもらった力をお返ししていかないといけない。そのためにも、今日一日が重要になる。

 力を存分に出したい、突出した成果を出したいと考えるエンジニアには、エンジニアであることを辞めよ、と言いたいですね。エンジニアというラベルを張っ た段階で、もう壁ができている。ビジネスマンであり、クリエーターであり、デザイナーであり、ストラテジストであり、アーティストでないと。大事なこと は、エンジニアであることではない。社会にどう貢献するか、なんです。

ハングリーでなければ何が食べられるか、何がチャンスかもわからない。飢餓感とともに屈辱感も彼の燃 料のひとつ。最初は私だって馬の骨。高名な先生に会いたいと思っても、誰も会ってくれなかった。その屈辱を支えにしてきた。

How ではなく、Why 。その“なぜ”を何度も繰り返すと、結局哲学のレベルになる。哲学をもっていないと人は生きていけない。その哲学は、エンジニアにも研究者にも、それこ そ、そのあたりのおばさんにも子供にも理解できる普遍的なものでなければならない。哲学を究めるとは、死の準備をすることにほかならない」と言ったの は、古代ローマの哲学者・キケロだった。石井氏の仕事哲学も結局はここに行き着く。

私はここでしゃべっているけれども、2050年は地上にはいない。2100年にはみなさんもいない。しかし、肉体は死んでも、名前は 忘れられても、あなた方が生み出したコンセプトは2200年になっても残るかもしれない。メメント・モリ。死を想いながら成し遂げる仕事。そのような仕事 をしてほしい




 最先端のデジタル情報技術の研究者から、「メメント・モリ」という、西洋宗教哲学における重要なフレーズを聞くとは思わなかった。研究に込めたその思いの奥深さに、会場は一瞬たじろぐように静まったのだった。
あけおめ

最近学んだことor社会人からの忠告




地位が人を育てる。ならばまず地位を乗っ取る


苦しいことを先にたくさんやると後で楽になって本当の楽しさが見えてくる


社会で必要とされない個性はいらない個性


外的コントロールの排除


行動原理より行為の対象とやり方


どう生きるかの哲学がない限り一流の仕事はできないby野村


仕事は選べなくてもやり方は選べる


人生では自分のために頑張る時と他人のために頑張る時が交互に来る
 敗戦からの復興は護送船団方式による、一億総中流社会の実現によってその目標を叶えた。

 しかし、その目標を果たして、緩やかな衰退が始まった今、マーケティング的に考えれば、総供給に対する総需要が追いつかないのだから、供給を受けれる者は限られ、格差というものが顕著になるのはある意味仕方ないことである...。

 当然のことながら、一部上場企業に就職すれば安穏とした生活を送れるという時代は終焉を迎えたし、高級官僚になったところで天下る先さえも覚束ない状況を迎えている。

 しかし、なんだか奇妙に感じるのは、格差を肯定することが、まるで社会的な背任行為であるかのように、格差について言及することは許されないムードというのが蔓延していることである。

 ここでひとつ問題なのは、敗戦からの復興という大変困難な命題を達成する過程において、日本人は死に物狂いで努力してきたという事実を、どうも正しく理解していない人が非常に増えているという点である。

  焦土と化したこの国は、資源もない。更に、身体能力も欧米諸外国人と比較すれば当然劣る。それでいて国際社会の中枢を担う経済大国となるまでは、今以上の 壮絶な努力を払わなければならなかったことは当然推測できる。つまり、一億総中流となったのは、誰もがこの命題に対して必死で取り組んだ成果でここまで来 たわけであって、何も努力なしでこの国際社会における地位など確立できるわけなどなかったということである。

 ところが、バブル期に何かを勘違いしてしまった、団塊以降の世代は、普通に学び、普通に就職すれば、安穏と普通の生活が送れるとの”錯覚”を抱いてしまった。

  歯を食いしばり、体力も国力も劣ることを、頭を使うこと、身体を使うこと、技術力や研究開発力をもってして克服してきたにも関わらず、どの努力を放棄して も、別に今までのレベルは維持できるという甘い見通しと認識をもってしまったことが、緩やかな衰退の大きな要因だと僕は思う。

 ゆとり教 育など当然、その活力を奪うに決まっている。もしかすると格差というのは今よりも歴然と合ったかもしれない。けれど、貧しくても笑顔溢れる家庭というのが 存在したし格差があっても不幸ではなかった。ところが、今は所得が低い=決して幸せな生活が送れないという非常に 飯櫃な社会が構成されてしまった。

 夢が持てない、希望が抱けない、閉塞感で明日が見えない...。そういう嘆きの声が聞えてくるけれ ど、その前置きには必ず、国が悪い、政治が悪い、社会が悪い、教育が悪い、会社が悪い、親が悪いなどと、自分以外を要因の対象として置き換えてばかりいる ように思われてならない...。

 と同時に社会や市場が成熟し、限られた需要に対して限られた供給しかあてがわれない時代となれば競争は 激化する一方であり、そんな社会で生き残ってゆける人に求められるスキルというの、15年前と比較すれば当然高まっているに決まっていて、そこについてこ れない人々は格差の渦に飲み込まれてもこれはある意味仕方のないことだと僕は思う。

 ただそこで問題なのは、そのために機能すべきが、政治や行政であるにも関わらず、そこが何のイニシアチブを持たずして、旧態依然のまま走り続けてしまった点にある。

 仮に”格差”という問題が生じたとしても、いつでもリベンジ出来る制度や仕組みやシステムさえ構築してしまえば、昨日の敗者が明日の勝者になることは容易で、新陳代謝も促され活発な社会が実現するはずだる...。

  能力を鍛錬することや、情熱や勇気を持ってリスクを負うことが正当に評価される社会であらねばならないと僕は思う。それを抱くことが、まるで反社会的な背 任行為のように扱われることなんて断じてあってはならない。と同時に、競い合って敗れることで命までも投げ出さずにすむセーフティネットを構築することこ そが、政治と行政の使命だと僕は思う...。

 もう普通の生活なんて何処にも無い。いや、昔からそんあもの本当はなかったのかも知れない。