ビツキヨです。

4月13日金曜日

夕方17時頃に

鹿児島に住んでいる妹から

入院している母の容態が悪く


酸素77~80

血圧68/53

このままだと今夜が山

と看護師さんが話していたと

連絡あり。


簡単に帰れる場所では無いので

どうしようか?と悩んでいたら

21時に弟から

母が亡くなった

と連絡があった。


会社への連絡と

家族みんなで帰省する

飛行機とホテルの手配

依頼などの準備をした。


弟から

斎場と

お通夜は、14日18時から

葬儀は、15日12時予定

に決まったと

夜中1時半に連絡あった。

準備して寝たのはかなり遅かった。


14日 土曜日の昼前に鹿児島空港に着いた。



高速バスとタクシーを使って葬儀場へ移動。


まるで、寝ている様な状態の母と再会。

白い布で顔を覆っている状態で

線香をあげた後、

布をとって母の頭を撫でても

今にも話しそうな生きている感じ。


鹿児島で働いている弟とお父さんで

色々と対応していて大変でした。

私は、長男なのに

大阪で過ごしているので

何も出来ずです。


家族葬で通夜をした後

私ら家族で葬儀場に泊まって

ろうそくの火と線香をみます。

前日は弟が泊まって母をみていました。


私は、余り寝ることが出来ないので

数時間ごとに母の顔を見て

線香を上げで夜中を過ごしました。


月曜日は葬儀と火葬。

享年83歳。


享年の付け方が

数え年の数字だと

初めて知りました。


誕生日を迎える前の数え年は

満年齢+2歳、

誕生日を迎えた後は満年齢+1歳です



母の頭を撫でて

最後の挨拶を何度かしましたが

涙が止まりませんでした。


一通り、終わりました。


5月31日の49日に

お坊さんの手配も完了。


葬儀のあとは、

悲しみも残したまま、

手続きをしなければなりません。


月曜日は、母の死亡に関わる手続きを

市役所や銀行、携帯電話など

進めました。

市役所の手続きはほぼ終わったのですが

銀行などで必要な

戸籍謄本や実印証明等

必要な事がわかり、

鹿児島の手続きは、弟に任せて、

火曜日に大阪に戻り

水曜日に資料を入手し、郵送。



私は遠くに離れていたので

毎日会っていなかった事もあり

母が亡くなった事が実感として

感じ難いですが

少し考えると涙が溢れますショボーン


実家を出る前に

母の形見として

子供二人用として

母が使用していた腕時計を貰いました。


動いていない時計もありますが

子供達は、母の形見として

喜んでいましたニコニコ


泊まったホテルに近い

鹿児島中央駅で散策ダウン




鹿児島空港にある足湯ダウン