《 横浜の日本初・吹奏楽発祥の地 》

 

若いころ、横浜は石川町に住んでいた関係で、近所に「日本初の記念碑」が沢山あることを知っていた。

「アイスクリーム発祥の地」「クリーニング発祥の地」「キリンビール発祥の地」「写真屋発祥の地」「ガス灯発祥の地」「ペンキ屋発祥の地」「鉄道発祥の地」「下水道発祥の地」等々、正確ではないが色々な碑があったことを思い出す。

 

今般、山手のお寺で「日本吹奏楽発祥の地」の碑を見つけた。最初は「まあ、よくある発祥の地の一つか」と思ったが、裏にある歴史というのは単純なものではなかった。

 

生麦事件(1862年)を発端とした賠償問題がこじれ、イギリス軍東洋艦隊と薩摩藩が戦ったのが、薩英戦争(1863年)。鹿児島の街は焼かれ、民家約350戸、武家屋敷約160戸が焼失したが、人的損害は死者1人、負傷7人と少なかった。

 

一方、イギリス軍東洋艦隊は、旗艦ユリアラスに薩摩の砲弾が命中。艦長、副長ともに死亡するなど人的損害は大きく、即死13人、負傷50人(のちに7人の負傷者が死亡)計20人の戦死者がでるという大損害を被った。

 

しかし、この戦争をきっかけに、敵ながらあっぱれと思ったか、こいつらは使えると思ったか分からないが、イギリスと薩摩藩の交流が始まり、10年後の明治2年(1872年)、薩摩藩当主がイギリス軍艦に呼ばれ歓迎を受ける。

 

その中で薩摩藩当主は軍楽隊の演奏に魅了され「近代化のために、わが藩でも軍楽隊を作ったらどうか」と提唱し、薩摩藩から30名のメンバーを出し「バンド」を結成することになった。

 

指導を仰いだのが山手に駐留していたイギリス軍楽隊のフェントン少尉で、薩摩藩士に吹奏楽を教えたというもの。妙香寺は薩摩から横浜に出向いてきた30人のメンバーの宿舎として使われた関係で「吹奏楽発祥の地」になっている。

 

しかし、若いころは「ああ発祥の地か」と思うだけで、歴史的にどういう意味を持っているのかなどと考えることは無かったが、こういう歴史のつながりを見ると、敵国だ友好国だというのは政治的なものでしかなく、人間の営みはあっさりと国の違いを超えて感動的な展開を見せる。

 

歴史を学ぶということは、事件と年表を覚えることではなく、政治と人間の関係を学ぶことだと思う。

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