美塾のキホン 2 | 美塾塾長 内田裕士オフィシャルブログ「人のために美しく生きる」Powered by Ameba

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常磐線の牛久駅で

「BAR VOLLEY」

を開店させるのです・・・。


家族の誰も予想しなかった親父の転身。


さて、予想に反してか予想通りか



「BAR VOLLEY」


はまるで流行らず、内田家の経済はかたむきます。



そして母美智子も一緒に夜はお店に出ることになったのです。



その頃に中学生になった僕は

それはそれは夜遊びに明け暮れます。


夜は無法地帯です。

泣く妹をなだめたら、改造自転車で友達と

繰り出します。そして橋の下でタバコを吸いながら

女の先輩とかとつるんでました。



そんな中でも頭は良かったのです。

中学1年の最初の「しんきょうけん(でしたよね?)テスト」では

学年で360人中4位でした。


ただ必死こいて勉強して点数を取るのがとてもカッコ悪い気がして

僕はいかに勉強しないでまぁまぁの成績をとるか

に集中していた気がします。


2年生の頃に学校の服装検査で

「髪の毛が茶色い」

と怒られ、親に連絡がいきました。


すると母は、

「裕士はもともと子供の頃から茶色いんです!」

と泣きながら校長室に怒鳴り込みに行ったのです。


おかげさまで卒業まで服装で怒られることは

その後ありませんでした。


まぁ、髪染めてたんですけどね(・∀・;)



そんな母の血は色濃く継いでいる気がします。


余談ですが3年後、妹がジャージのすそを切っていたので

また母が呼ばれたのですが、今度は

「そんなくだらないことでいちいち親呼ぶな!」

とぶちきれたそうです。


そんな母の血は色濃く継いでいる気がします。


そして中学3年では野球でレギュラーでしたが

弱小で、早々と引退しました。



俄然興味は学園生活です。


運動会では応援団。


文化祭ではバンドとクラスの出し物の脚本、監督。



生涯で勉強したのは中学3年の8月~1月の半年だけです。



夏期講習から塾に通い、受けた私立が全部受かってた段階で

塾も勉強も一気にやめました。



後半はその進学塾で数学は1,2番を争うほどでした。


また、教えるのがとてもうまくて先生に聞いて納得がいかないと

みんなは僕のところに来ました。


僕のところに来て数学理解できずに帰る友達はいませんでした。




そして当時偏差値58の県立高校に入りました。

入学式に宣誓文を読みました。

つまり入試が1番だったのです。


ちなみに高校最後のテストは257人中255番。

実に254人が僕を抜いていきました。



バスケ部に入りました。

スラムダンク観てバスケ部はいらない方がおかしい。



それはハマりました。


朝練 昼練 夜練・・・。



その時期誰より練習しました。

あんなに飽きないの後にも先にもバスケくらいです。



だからずっとやるはずだったんですが、

夜の裕士がやらかします。



日中バスケ

夜は地元のやんちゃ軍団とつるむ・・・


そんな二重生活でした。



ある日バイクを盗みに行こうという計画が持ち上がり、

僕も一緒に行くことにしました。


そして僕たちにも愛車ができました。



そんなある日公園で飲み会をしていたら


ウゥ~ー・・!   ウゥ~ー・・!



とパトカーの音がしました。

みんな寝ていたのですがダッシュで起き上がり

森や林へ逃げ込みます。



なんとか助かったのですが乗り物が全部

なくなっていたのです。


そして結局警察からお呼びがかかり

御用となったのです。



さすがの両親もこの頃は怒りました。

兄からも殴られました。

僕も心底反省しました。



そして部に迷惑をかけてはいけない、

バイク代を弁償しなくてはいけない、

という理由でバスケ部をやめます。



そして焼肉もりもりでバイトをするのです。