お国から


名誉の戦死


そう送られてきた骨壷をあけると


中には


木の板が一枚入っていただけでした。



祖母は生きていたら102才。


終戦を32才でむかえています。


祖父は、戦闘機の工場で
プロペラを作る特殊な仕事をしていたため
戦争には行っていません。


祖父には弟がいました。


末の男の子として生まれたので
 

名前は末吉。


私の実家には、当時の戦闘員の服を来た
末吉さんの遺影が今も残されています。


戦争といえば


赤紙とよばれる徴収令状が届いて

昨日まで普通に生活していた青年が
兵士として戦地に行く。


そんなイメージが私にはありました。


ところが末吉さんは違います。


自ら兵士として志願をすると
いくばくかのお金がもらえたそうです。


どんどん戦い
どんどん稼いでこい


そう言われて


貧しい農家の青年たちが、何も知らずに
家族の生活のためと戦地に向かう。


祖母は、バンザイをしながら送り出される青年たちを見て

その行く末を思うと言葉にならなかったそうです。


大戦がはじまるずっと前。

祖母が一番最初に女中奉公にだされたのは
いまの京都大学の学生寮でした。


そこには、中国や韓国からの留学生がたくさん来ていたそうです。


異国からやってきた青年たち。


大勢の留学生から聞いた、広い大陸の話。


のどかな田舎で田畑を耕すことしか知らない。


そんな末吉が武器を手にし


あの広い大陸から本当に生きて帰ってこれるのか?


終戦間近になったとき


戦地から帰ってきた青年が尋ねてきます。


末吉さんとは、フィリピンで帰国船に乗る前に会ったんです。

自分とは違う港から船に乗る部隊だと言ってそこで別れました。

帰って来られていませんか?



数日後、祖母は夢を見ました。


蒸し暑い森の中で


痩せこけた手足をして、お腹だけが膨らんだ末吉さんの姿です。


目が覚めたとき、こう思いました。


末吉は、うまく帰国の船に乗ることができず、南の戦地で餓死したんだな。


終戦からしばらくして


名誉の戦死


そう送られてきた骨壷をあけると


中には


木の板が一枚入っていただけでした。


毎年、お盆になると
実家のお墓まいりに行きます。


私がお参りするお墓は2つ。


福井家のお墓と日本兵のお墓です。


戦地で亡くなった人のお墓は
人一倍大きく立派に建てられています。


その中に、末吉さんのお墓があります。


家族に楽な生活をさせてやりたい。


自ら戦地に向かった末吉さん。

歩き始めたばかりの息子と若い奥さんがいました。


お墓まいりに行くと


ときどきキレイなお花が供えられています。


息子さんがお墓まいりに来ているんですね。

終戦から70年。


毎日が平和に暮らせていること。
本当に有り難く思います。