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 大沢在昌氏の「新宿鮫」は、私の中で、長い間封印

されていた小説でした。


 というのは・・・ 


 長い話ですが、聞いてください。


 大沢氏は私の東海中学校・東海高校の同級生。

同じくクラスで隣り合わせの席にもなったことも

何度か有ります。


 高校生の頃、授業中に、彼は小説を書いていました。

何度か読ませてもらった事が有ります。

内容は忘れてしまったけど、ハードボイルド系の

小説で、その頃好きだった「大藪晴彦」氏に似て

いたような気がしました。氏は、「全然違う」と言って

いたけど・・・。


 その頃の私はというと、同じように授業中に「書き物」

をしていました。と、言っても「小説」ではなく「アジビラ」。


 当時の私は、社会主義青年同盟という団体に属する

社会主義活動家。つまり過激派のアカ学生であった

訳です。授業中にサボって、「帝国主義打倒」だの

「沖縄返還反対」などという「ビラ」を書いていました。

当時は、ガリ版で書いて、それを輪転機で刷るという

事をしていて、その原稿を授業中に書いていた訳です。

同じ「書き物」をしているとはいえ、内容は全く別。


 周りの友達が受験勉強に没頭する中で、黙々と自分の

世界を築いている大沢氏は、所謂「風変わりで浮いた」

青年で有りました。

 同じく、日本に社会主義革命を起こそうとしている

活動家である私も、毛色の変わった学生でした。

一時は、社会主義協会にも絡んで、国鉄(今のJR)の

労働組合のおじさん相手に、勉強会の講師もしていた

かなりディープな高校生活動家であった私としては

周りの「純粋な青年」達を「無関心な連中」と侮蔑しながら

も、「大沢在昌」氏には、一目置いていました。

 元々「書くこと」に関心があった私としては、

文学青年の「大沢」氏は、些か尊敬というか憧れの

ようなものが有ったような気がします。


 当時の私にとって「気になる奴」だった訳です。


 大学へ進学し、そのまま革命家の道を突き進むはず

の私に、大きな事件が起こります。


 社会党の74年テーゼです。


 私の所属していた「社会主義青年同盟」は、社会党系

の左派。当時日本共産党の青年組織「民主青年同盟」

所謂「民青」に対して、同じ左翼でも過激派として存在

する「社青同」という組織でした。

 もっと過激な左翼は、「新左翼」と呼ばれ、たとえば

日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派

(革マル)や同中核派(中核)などの内ゲバ事件や

日本赤軍(浅間山荘事件)などといった暴力闘争を

起こして新聞紙上を賑わしていた、所謂「過激派」とは

少し距離を置いていました。


 当時の社会党は、総評という労働者組合組織と

社会主義協会などの革命家組織との連合体で

右から左まである、なんでも有りの大所帯でした。

しかし、74年に出されたテーゼにより、それまでの

社会主義革命路線を変更し、国会での野党第一党

として政権を狙うという方向転換を行います。

 その結果、この大所帯から過激派分子を追い出して

「平和」路線を強調しようとしたわけです。

そこで、過激派として追い出された多くの活動家は

自力で組織を立て直し、また、他の組織へ転向し

ちりぢりになった訳です。

 私の所属していた「社青同愛知県地方本部」は

既に独立して別組織を創っていた横浜の仲間と同調し

新たな組織を模索していました。

 ところが、そんな時というのは、全員一丸となって・・・

とはいかないもので、一寸した考え方の違いや、

人間関係などが原因で、さらに分離統合を繰り返す

はめになってしまうモノです。もちろん、官憲の圧力も

あったのも事実でした。なにしろ、赤軍派の事件が

あった後ですから。

 当時、高校生で最年少の私としては、いかにもキツイ

状況で、嵐の中に放り出された状態。まして、受験の

時期であった私としては、精神的に不安定でした。

それでも、高校3年生の時には、旗揚げした最後の

組織の書記局に入る予定でありました。

 しかし、それも旗揚げ前に、取りつぶしになり・・・

という状況で、一気に革命熱が萎えてしまいました。


 当時の言葉では、「日和見主義」といわれ、革命を

捨てて、体制に迎合した裏切り者となってしまった

訳です。

 まぁ、所詮高校生のお遊びと言われても仕方がない

事ですが、本人は真剣な事で、親も家も縁を切って

革命運動に身を投ずるつもりでしたので、急激な周り

の変化に踊らされて、大変な思いをしました。

 そして、挫折をし、敗北感を味わい、私の人生の中で

その後もトラウマとして残ることになってゆくわけです。


 長い話になってしまいましたが、

その後、大学生になって、一気に反対方向へと向かう

ベクトルが、音楽活動から曲作り、そしてマスコミ関係

と、今の私を創ってゆきます。


 すっかり、トラウマも忘れ、軟派な学生に身をやつして

いたころ、あの「大沢在昌」氏が物書きになって

新人賞を取ったと聞きました。

 その頃の私と言えば、ライブハウスのオーディションに

通っても、前座で歌わせていただける程度で、空き時間

にはビラ配りをするのが仕事。

音楽の世界の厳しい現実に直面していました。

氏の成功を聞いたときに、トラウマが蘇りました。


 さて、その後、名古屋へ呼び戻され、今の仕事に就いて

そこそこの成果が出始めたとき、

「大沢在昌」氏の出世作「新宿鮫」が刊行され話題と

なります。

 同級生の間では、一気に「新宿鮫」ブームが巻き起

こります。当然、私も手に取る事になるのですが・・・・。


 氏の文章を読み進む内に、忘れていた高校生の時代が

まざまざと蘇ってきました。彼の文章から、ストーリーから

登場人物まで、何故か高校生の時代を思い出させる

空気が濃密に詰まっていました。

 まして、舞台となった新宿歌舞伎町は、私が大学生時代

に深夜のアルバイトをしていた街。謂わば、私の庭なの

でした。

 読み物としての「新宿鮫」は、素晴らしいストーリー展開と

類い希なる文章運びで、超一級の読み物。ベストセラーに

なるのは当然でありました。彼の才能に、遙か昔にふれて

いた自分に興奮しました。


 だがしかし・・・。


 トラウマの前に、私はまたあのときに引き戻されました。

嵐の真っ直中にあり、いい知れない恐怖にさらされていた

あの時代に、自責の念にさいなまれながら、過ごした

孤独な日々に・・・。

 「新宿鮫」を読むうちに、私は息が詰まりそうになりました。

途中で、読めなくなってしまったのです。


 以来、「新宿鮫」は手に取る事の出来ない、封印された

小説となりました。


 その後、氏が直木賞を取ったとき、同級生が開いた受賞

記念祝賀会にも足が運べず、「大沢在昌」の活躍は

いつもトラウマが付きまとっていました。


 そして、20年。


 あれから、いろいろ有りました。

ソ連が崩壊し、中国が市場解放し、今や社会主義革命

という言葉さえ、忘れそうな時代。

 私も、自民党の青年局長を務め、体制側に組み込まれ

同世代の嘗ての左翼活動家が閣僚になる時代。


 漸く、「新宿鮫」が解禁出来ました。


 始めは、偶然に手にした

「魔女の笑窪」

恐る恐る、読み進む内に・・・

大丈夫、トラウマが蘇らない!


 そこで、次から次へ大沢作品を読みあさりました。

天使シリーズ・ジョーカーシリーズ・魔女シリーズ

アルバイト探偵・エージェントクリスシリーズ・その他

次々と読み進んで、こんなに著作が有ったのかと

改めて驚き、氏の才能に敬服しました。

 そして・・・怖々、佐久間公シリーズ。

デビュー作の「感傷の街角」を読んでも・・・

もう大丈夫!


 そしてついに、新宿鮫へ!


 今、失った時代を取り戻すべく、「新宿鮫」を貪るように

読んでいます。既に、シリーズ第5番「炎蛹 新宿鮫V」

を読み終えて、感無量です。

 大沢在昌氏は素晴らしい作家です。同じ青年時代を

過ごせたことに、誇りを感じます。