世界でも随一の風俗大国・ニッポン。今あるソープランドやファッションヘルスなどは戦後に急成長し、ゼロ年代にデリヘルが隆盛。時代背景や法律などの影響を受け、手を変え、品を変え、生き残ってきた。
しかし、ニッポンの風俗は何も戦後にすべてできたわけではない。そのルーツを辿ると古代にまで遡ることができるのだ。そこで、本コラムでは短期集中連載として風俗の歴史を辿ってみたい。
第一回は、まさに風俗の源泉となった古代。なんと風俗嬢の原型は『巫女』にあるというのだ。その驚くべき記述は、日本最古の歴史書『古事記』のなかの「天の岩戸」というエピソードにある。
あらすじはこうだ。
スサノオが高天原で狼藉を働くので、最高神である姉のアマテラスは岩戸の中に隠れてしまい、高天原は真っ暗になった。困った八百万の神々は岩戸の前で様々な儀式を行なった。どれも失敗に終わったが、アメノウズメノミコトという巫女の登場で、事態は好転する。
原書ではこう記述されている。
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき」
簡単に要約すると、伏せた桶のような物の上でアソコに紐を垂らしながら、全裸で踊ったのである。これに八百万の神々は大笑い。この事態が気になったアマテラスが岩戸の外に出てきて、高天原に光りが戻ったというエピソードだ。
これは日本最初の踊りと位置づけられ、芸能の原点だとされている。いわば現代のストリップショーのようなものである。
実はこの神話は、当時の巫女の役割を記述したものだと考えられている。巫女との性交によって神の言葉を聞く意味があったとされ、まだ金銭による対価の支払いはなかった。
奈良時代に入ると「遊行女婦(うかれめ)」という巫女が現れる。彼女たちは地方を巡り、役人や旅人を相手に売春をするようになった。彼女たちはさしずめ温泉旅館のコンパニオンのような役割を果たした。宴席で舞いを踊り、殿方を楽しませたあと、床に入り夜を供にしたのである。伝わるところによると、一夜の値段は穀一升か布五尺。現在の価格に換算するとギャラは約10万円といったところ。こうした「遊行女婦(うかれめ)」は一説によると、全国に数千から1万人ほどいたといわれている。女性にとっても憧れの職業だったようだ。
このような売春を生業とする巫女たちは、平安時代に入ると、旅をしなくなり土着するようになった。おもに大きな神社のそばに『遊里』と呼ばれる風俗街を形成。平安後期の学者・大江匡房は『遊女記』などで、その盛況ぶりを記している。この頃から「遊女」と呼ばれるようになり、より風俗嬢らしい呼び名が登場してくる。ただし、風俗街が神社のそばに置かれたのは、まだ神との交流という意味合いが強かったからだ。いわば売春は神事に近かったのである。
古代の欧米諸国では、おもに売春を行なうのが奴隷であったのに対し、日本では巫女が担ってきた。こうした違いには宗教的な考え方の違いが多分にある。売春=悪という図式は非常に西洋的だ。ましてや風俗の防止が女性解放に繋がるというのは、日本古来の文化や歴史を踏まえれば、偏った見方にすぎないということがわかるだろう。
次回は鎌倉時代以降の風俗を概観していきたい。幕府公認の遊女の集団が登場し、ニッポンの風俗が大きく花開く時代である。武断政治へと世が傾くなか、遊女たちはどのようにして活躍したのか。その真相を探っていこう。
しかし、ニッポンの風俗は何も戦後にすべてできたわけではない。そのルーツを辿ると古代にまで遡ることができるのだ。そこで、本コラムでは短期集中連載として風俗の歴史を辿ってみたい。
第一回は、まさに風俗の源泉となった古代。なんと風俗嬢の原型は『巫女』にあるというのだ。その驚くべき記述は、日本最古の歴史書『古事記』のなかの「天の岩戸」というエピソードにある。
あらすじはこうだ。
スサノオが高天原で狼藉を働くので、最高神である姉のアマテラスは岩戸の中に隠れてしまい、高天原は真っ暗になった。困った八百万の神々は岩戸の前で様々な儀式を行なった。どれも失敗に終わったが、アメノウズメノミコトという巫女の登場で、事態は好転する。
原書ではこう記述されている。
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき」
簡単に要約すると、伏せた桶のような物の上でアソコに紐を垂らしながら、全裸で踊ったのである。これに八百万の神々は大笑い。この事態が気になったアマテラスが岩戸の外に出てきて、高天原に光りが戻ったというエピソードだ。
これは日本最初の踊りと位置づけられ、芸能の原点だとされている。いわば現代のストリップショーのようなものである。
実はこの神話は、当時の巫女の役割を記述したものだと考えられている。巫女との性交によって神の言葉を聞く意味があったとされ、まだ金銭による対価の支払いはなかった。
奈良時代に入ると「遊行女婦(うかれめ)」という巫女が現れる。彼女たちは地方を巡り、役人や旅人を相手に売春をするようになった。彼女たちはさしずめ温泉旅館のコンパニオンのような役割を果たした。宴席で舞いを踊り、殿方を楽しませたあと、床に入り夜を供にしたのである。伝わるところによると、一夜の値段は穀一升か布五尺。現在の価格に換算するとギャラは約10万円といったところ。こうした「遊行女婦(うかれめ)」は一説によると、全国に数千から1万人ほどいたといわれている。女性にとっても憧れの職業だったようだ。
このような売春を生業とする巫女たちは、平安時代に入ると、旅をしなくなり土着するようになった。おもに大きな神社のそばに『遊里』と呼ばれる風俗街を形成。平安後期の学者・大江匡房は『遊女記』などで、その盛況ぶりを記している。この頃から「遊女」と呼ばれるようになり、より風俗嬢らしい呼び名が登場してくる。ただし、風俗街が神社のそばに置かれたのは、まだ神との交流という意味合いが強かったからだ。いわば売春は神事に近かったのである。
古代の欧米諸国では、おもに売春を行なうのが奴隷であったのに対し、日本では巫女が担ってきた。こうした違いには宗教的な考え方の違いが多分にある。売春=悪という図式は非常に西洋的だ。ましてや風俗の防止が女性解放に繋がるというのは、日本古来の文化や歴史を踏まえれば、偏った見方にすぎないということがわかるだろう。
次回は鎌倉時代以降の風俗を概観していきたい。幕府公認の遊女の集団が登場し、ニッポンの風俗が大きく花開く時代である。武断政治へと世が傾くなか、遊女たちはどのようにして活躍したのか。その真相を探っていこう。