以前、高野山にその時の職場の人と3人で参拝に行ったことがあります。
当時はまだバイクには乗っていなくて
同僚が運転する車に乗せてってもらいました。
 
この時の記事で書いたように


私には日本の江戸時代に女性として生まれ夫に先立たれ、未亡人として浪人の愛人となり貧乏な生活をしながら夫の忘れ形見の子供を育てていましたが、その子も子供のうちに亡くなってしまうという過去世があります。

のうち、過去世の「浪人さん」がこの時の運転をしてくれた人でした。

江戸時代に生きた【私】が憧れた高野山に当時の恋人と参拝したって、【私】からしたら想像もつかない未来世だと思う。

それから、この時の
「忘れ形見」と最近友達になりました。
もちろん友達となった時はそんなこと知る訳もなく。
最近あった人なのに、幼い頃から仲良くしていたいとこのような、【枠】がない感じ。
この感覚が不思議で、momoさん 


から「過去世で親子だった」と聞いて、あぁ、過去世でも自分が産んだ子供なら【枠】がない感じになるんだなぁと。
記憶になくても魂がちゃんと覚えている。

今世は忘れ形見の坊と美味しいご飯を一緒に食べにいく友達関係。

例えばこんなカフェランチ。客殿。お正月おせちランチ

女手一人で、今のように福祉サービスもなかった時代に子供を育てるなんて命を削るように生きていたんじゃないかな。

江戸時代の貧しい生活の中でこんな美味しいご馳走を坊と食べれるようになる未来を夢見ていたから、今度は友達として出会ったんだと思う。

だから人との別れなんてほんの一時。
その時この人とこうしたいが叶わなくても
ちゃんと魂は覚えていて、叶えてくれる。

だから私たちはたとえ現世で叶うはずがないと思った望みを持つことはできる。

壮大な魂の輪廻の中で。
夢は叶う。