例えば「日記」

例えば「自己受容のワーク」
例えば「設定変更」
のように本音をノート(や日記帳)に書くということに強い抵抗がありましたゲッソリ
 
何故かというと
 
ノートには「本音」を書くことが前提のため
身近な家族への気持ちや
自身の中の欲求を正直に書きます
 
「もし、このノートを見られたら…」と思うと「書けない」
書いたとしても「当たり障りのないことしか書けない」
ということを繰り返してきました
 
なぜなら、自分自身が元気なうちは
「ノートを自分だけしか触らない場所に保管する」とか
「書いたら処分する」とか行動して他者の目に触れないようにできますが
 
例えば
事故や震災などで私が個人となった場合
身内が遺品として処分することになるでしょう
 
そうしたら「これを読まれたら身内を傷つけてしまうのではないか汗
と思うとノートに書くことができない。
 
その恐怖な感じが湧いてきて
頭でぐるぐる考えてしまったので
一人ラインしてみました
 
20180520_091515.jpg
 
実際に自分の書いた日記を身内に読まれて
その身内について書かれた部分について
身内から非難された知人の話など
 つらつらと一人思いついたことをライン入力しているうちに
 
逆に身内が急死して遺品整理しているときに
自分自身が故人の日記を読んだりスマホを見てしまう
 
…かもしれないチーン
 
という思いが自分の中にあることを発見しました
 
それは悪意や秘密を知りたいという気持ちからではなく
 
まず本人は亡くなっていて
本人から見たことについて責められることがないため見ることへのハードルが下がること、
 
そして
身内に急死されるということは大きな喪失体験で
その喪失体験を埋めるために
生きていたときのその人自身の思いを知りたいと
感じてしまう

 

その気持ちは止められないよな~

(実際に本人は亡くなっているわけだから物理的にも止められない)

 

かと言って

「じゃあ、私は身内が亡くなっても故人のノートや日記は絶対にみない」と「設定変更」するかというと

今の時点ではそこも違和感ですうーん

 

ただ、思ったのは

遺族が故人の日記やノート、スマホなどみて知らない一面を知ったことで

故人に対して「怒り」や「申し訳なさ」やその他もろもろの感情が湧いたとき

それは「見た人が乗り越えるしかない課題」であって

故人はどうしようもないんだということ真顔

 

見られることへの恐怖感は

自分自身が見てしまうかも。という思いがあるから。

また、本音を書けないのは私にとって

大切な人たちを傷つけたくない。という思いがあるから。

でも、それは見た人の課題だ、

と気づいたことによって気が楽になって

ノートに本音を書くことに躊躇がなくなりました口笛

 

身の体内の内側(頭の中)から

外側(現実)に向けて物質化が始ま最初のプロセスって

自分の想いを

言葉にして聞く

文字にして見る

ことではないかと。

 

まずはラインに書き込む、ノートに書くの可視化から始めてみようウインク