イラストレーター村田峻治の日常 -474ページ目

B-29 Superfortress

Boeing B-29 Superfortress
アニメーター村田峻治の日常-B-29 Superfortress

太平洋戦争における日本への長距離爆撃専用に開発された戦略爆撃機

この飛行機は大嫌いだ。

1945年3月10日の東京大空襲

広島の原子爆弾を超える10万人ともいわれる死者を一晩で出した。

通常の高射砲も届かない高度10000mで飛行できるこの機体に対して、有効な性能を持った戦闘機は無かった。

終戦となった1945年8月15日の未明まで無差別爆撃は続いた。

計画では全国180都市(実際には66都市が)を焼き尽くした日本焦土作戦

その作戦の指揮をとったのがカーチス・ルメイ少将だ。

当時、村田の家は久我山にあったそうだ。

久我山には唯一B-29を直撃できる15cmの高射砲が有った。

5月25日の大空襲でも久我山は避けたとの話もある。

もし、そこに高射砲が無かったら、今自分は存在していないかもしれない。

今同居している叔母は当時海軍軍令部に勤めていたそうで、根岸競馬場にある軍令部に通っていた。

だから、横浜大空襲の体験もよく聞く。

B-29の生産数は3,900機。その大半は東京大空襲後にロールアウトした。

当初は東京、大阪等の主要6都市だけの予定だった爆撃が、なぜ全国の地方都市にまで及んだのか。

何故、原爆後の8月15日まで爆撃を行ったのか。

戦争は国家経済を破綻させる。事実アメリカも硫黄島のあの写真で戦時国債を増刷出来なければ破産していた。

この辺はクリント・イーストウッド監督『父親たちの星条旗』に描かれている。

だが、そんな状況でも儲かる連中が居る。

軍需産業がそうだ。

個人的にはこの日本焦土作戦にボーイング社とルメイとの間に何かしらの取引があったと思っている。

ルメイは爆撃に出撃する乗員にこう言っていたという。

『君が爆弾を投下し、そのことで何かの思い に責め苛まれたとしよう。

そんなとき はきっと、何トンもの瓦礫(がれき) がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、 身体中を火に包まれた子供の泣き叫ぶことを 思い浮かべるに違いない。

 正気を保ち、国家 が君に希望する任務を全うしたいなら、そん なものは忘れることだ。』


これはいわば前々回のBlogに書いたアドルフ・アイヒマンの言い分と変わりない。

良心の立入禁止区域にどっぷり浸かっていた人間といえる。

彼は戦後、空軍参謀総長となり、キューバ危機の時には強硬にキューバへの空爆を進言した。

ケネディ大統領によって却下されたが、もしかしたら第三次世界大戦のきっかけを作っていたかもしれない。

ベトナム戦争時には『北ベトナムを石器時代に戻してやる』と北爆を推進した。

そんな彼に日本は1964年、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績によりとの理由で勲一等旭日大綬章をルメイに授与している。

事情としては源田実(真珠湾攻撃の航空参謀で戦後は参議院議員)の特攻隊戦術の責任不問との交換材料や

アメリカから勲章をもらったお返しにともいわれているが。

それで納得など出来はしない。

彼はB-29での高度10000mからの精密爆撃は困難と言う理由で無差別爆撃の指揮をとった。

日本に満足な迎撃能力がないとわかってからは夜間低空からの爆撃を行った。

日本焦土作戦の骨子はこうだ。

1. 高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。

2. 爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。

3. 搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。

4. 攻撃は夜間とする。

さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。

要するに実質的に低空からの民間人への精密無差別爆撃を行ったのだ。

末期には機動部隊艦載機や硫黄島から飛来する単発機による爆撃や機銃掃射も行われた。

何の武装もしていない民間人が超低空で飛来する戦闘機からの銃撃を受けた。

明らかにこれは戦略などではなく、虐殺である。

しかし、歴史を見ると皮肉なものだ。

真珠湾攻撃によって航空機の重要性をアメリカに教え、制空権を失い

重慶への世界初の都市爆撃を行った日本はB-29によって焦土となった。