最近、子育てに積極的に参加する「育メン」が増えているらしい。私はお世辞にも子育てには一生懸命ではなかった。どこの家庭も似たようなものだろうが、子供が小さい頃は仕事も大変な時期に重なる。器用な方ではないので仕事との両立も出来なく、どうしても子供の方を向くことができない。そして、いつの間にか大きくなっていく、、
思えば、親が子供と一緒に過ごす時間というのはそんなに長くない。そう、思い出を刻む時はそんなに長く残されていない。そっかー。。
昨年の震災が起きた頃、仕事のブランク期間で家にいる時間も長かったのは何かのきっかけだったのかもしれない。二人で過ごす時間がやたら長かった。震災直後、小学生なんて家の外に出ていなかった頃、二人で地元のボランティア活動に飛び出して行ったことで何かが変わった。こういう時は理屈ではなく、まずは動くことを教えたかった。
そういえば、当時仲が良かった友達と大喧嘩をして帰って来たことがあった。やはりちょうど家に居たのだが、悔しさと悲しさで泣きじゃくる息子。何を話すわけではないが、側に居てやれてよかったと思っている。一人で帰宅したらどんなに寂しい思いをしたことだろう。親の務めは子供に寂しい思いをさせないこと、これに尽きる。ちなみに、今やその友達とは大の仲良しである。
一念発起して一眼レフも買ってみた。思い出は心の中にあるものだが、やはり、その時々を形にすると全然違う。あるシーンの表情はその場所、その状況でしか出せない。そんな瞬間をおさめていくと思い出もより鮮明なものになるに違いない。
大事にしていることはそ「食事」と「風呂」
食事は命の源、とは言っても単なる「えさ」ではない。食卓を共にするということが大事だと思っている。何を話すわけでもないが、共にするとそれぞれの状況が分かる。だから食卓のことはマジメに考える。旨いとかまずいとかではない。誰かのために何かをしているということが大事なのだ。大人になった時、思い出すものはやっぱり家庭の味だったり、食卓を囲んだ姿だったりするものではないか。それはテーブルに並んだものも含めてその場の雰囲気だったりするものだと思っている。最近の子供たちはこの経験が貧弱な気がする。
もうひとつは風呂。風呂とは不思議なもので「最近どうだ?」というような話しが気軽にできる。普段はマジメに聞かない話も風呂の中では大人しく聞いている。小さい頃からあえて銭湯やら温泉やらにも連れていくのだが、大きな湯船やサウナに一緒に入ったりしながらする話はいつもと何か違う。やっぱり、裸の付き合いってやつか。
これから様々な壁にぶつかったりしていくに違いない。そして、思春期に突入すれば親なんか気にもしなくなる。でも、子供の頃の思い出というものは心のどこかに残っているものだ。それが頼りになったりもする。どんな人生を送るのかはお楽しみだが、今はやりたいことをやらせて、伸び伸びと過ごさせたい。親なんて大したもんではない、ちょっと先に生まれたに過ぎない。でも、大事なことは伝えておきたい。それは言葉にするものではない。
何が正しいのか、正義とは何かは不変のものように見えて、実は立場や置かれている環境によって変わるものである。
皆さんの身の回りでもよくあるでしょう。つい最近までは同僚と飲み明かしていたはずが、ちょっと偉くなると態度が変わってしまったり、若い頃はメチャクチャしていたくせに親になると急にマジメくさった話をしたり。そう、上の立場に就いたり、親になってみると見える景色があったり、価値観があったりする。そうすると正しかったものが変わってくるのです。
国家でもそう。テロを企てる組織やミサイルの発射実験をする国にも彼らなりの正義がある。日本人の我々には到底考えられないような価値観がある。それが受け入れられるか否かではなく、そういう現実があることを認識しないといけない。
少し前の時代はある意味ではそれぞれの国なり、組織に中により大きな価値観があり小さなコミュニティの中で「なんだ偉くなって急に変わりやがって!」とか「親になったら偉そうに!」といった程度で済んでいました。そう、どこか根本のところでは同じことを考えている、同じ思想を持った人々の間での問題なので、放っておいても時間が解決してくれるところがあった。ビジネスでも世界に飛び出す商社マンや一部の大手企業の尖兵たちが異国の文化や価値観に触れるだけで一般人にとっては海外旅行プラスアルファ程度で自らの殻に閉じこもっていても何の問題もなかった。
ところが今はどうだ。企業もグローバル化していて外国の方が普通にオフィスにいる。上司や部下が日本人以外なんて珍しくない。公用語を英語にするなんて会社も出てきている。一般の人々もインターネット上で一瞬にして世界中の人々と接触し、情報を得ている。海外で暮らしたり、仕事をするとよく分かるが、根本的な部分で全く異なる考え方の人々がいるのだ(当たり前だが、、)。話をしても絶対に分かり合えない。そんな世界と我々は常に接しているのだ。
マイケルサンデル氏の「正義」に関する書籍や講義が人気なのはよく分かる。今の時代、様々な価値観の人々と否応無く接する。そうなると相手を拒否したり、避けたりすることは出来ない。状況を受け入れた上で話をしたり、仕事をしたり、付き合っていくことが求められる。根本にあるものが違うので誰もが納得する正解なんてものはない。
彼の講義は「答え」がない。「君ならどう考える?」と質問を繰り返すことで思考を鍛えている。自分の価値観や自分なりの正義のようなものがないと考えることも出来ない。大切なことはまず自らの頭で「考えること」なのだろう。そうすることで異なる価値観の人々と接することになった時の柔軟性が生まれてくるのだと思う。正に多様性の時代である。
皆さんの身の回りでもよくあるでしょう。つい最近までは同僚と飲み明かしていたはずが、ちょっと偉くなると態度が変わってしまったり、若い頃はメチャクチャしていたくせに親になると急にマジメくさった話をしたり。そう、上の立場に就いたり、親になってみると見える景色があったり、価値観があったりする。そうすると正しかったものが変わってくるのです。
国家でもそう。テロを企てる組織やミサイルの発射実験をする国にも彼らなりの正義がある。日本人の我々には到底考えられないような価値観がある。それが受け入れられるか否かではなく、そういう現実があることを認識しないといけない。
少し前の時代はある意味ではそれぞれの国なり、組織に中により大きな価値観があり小さなコミュニティの中で「なんだ偉くなって急に変わりやがって!」とか「親になったら偉そうに!」といった程度で済んでいました。そう、どこか根本のところでは同じことを考えている、同じ思想を持った人々の間での問題なので、放っておいても時間が解決してくれるところがあった。ビジネスでも世界に飛び出す商社マンや一部の大手企業の尖兵たちが異国の文化や価値観に触れるだけで一般人にとっては海外旅行プラスアルファ程度で自らの殻に閉じこもっていても何の問題もなかった。
ところが今はどうだ。企業もグローバル化していて外国の方が普通にオフィスにいる。上司や部下が日本人以外なんて珍しくない。公用語を英語にするなんて会社も出てきている。一般の人々もインターネット上で一瞬にして世界中の人々と接触し、情報を得ている。海外で暮らしたり、仕事をするとよく分かるが、根本的な部分で全く異なる考え方の人々がいるのだ(当たり前だが、、)。話をしても絶対に分かり合えない。そんな世界と我々は常に接しているのだ。
マイケルサンデル氏の「正義」に関する書籍や講義が人気なのはよく分かる。今の時代、様々な価値観の人々と否応無く接する。そうなると相手を拒否したり、避けたりすることは出来ない。状況を受け入れた上で話をしたり、仕事をしたり、付き合っていくことが求められる。根本にあるものが違うので誰もが納得する正解なんてものはない。
彼の講義は「答え」がない。「君ならどう考える?」と質問を繰り返すことで思考を鍛えている。自分の価値観や自分なりの正義のようなものがないと考えることも出来ない。大切なことはまず自らの頭で「考えること」なのだろう。そうすることで異なる価値観の人々と接することになった時の柔軟性が生まれてくるのだと思う。正に多様性の時代である。
iPhoneをプチッと押せば日本中、いや世界中どこにいても居場所が分かる。ボタンひとつでどこに進むかも教えてくれる。
でも、本当に自分がどこにいるのか分からなくもなる。
居場所がない。
前も後ろも、右も左も。
居るようでどこにも居ない。
これまでも色んなことがあったけど自分を取り戻す帰る場所があった。
同僚と酒を酌み交わすのもある意味ではバランスを取るための居場所だったのだろう。
どこで間違ってしまったのだろう。
何かがおかしい。
リセットボタンを押してしまいたい。そんな潮時なのかもしれない。
でも、本当に自分がどこにいるのか分からなくもなる。
居場所がない。
前も後ろも、右も左も。
居るようでどこにも居ない。
これまでも色んなことがあったけど自分を取り戻す帰る場所があった。
同僚と酒を酌み交わすのもある意味ではバランスを取るための居場所だったのだろう。
どこで間違ってしまったのだろう。
何かがおかしい。
リセットボタンを押してしまいたい。そんな潮時なのかもしれない。