ブログネタ:成人の日、新成人に一言
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俺みたいなおっさんになってはいけない…新成人に云いたいことはそれだけである。俺みたいなおっさんというのは、具体的に書くと「平日の名画座に潜り込んで、怪獣映画を観て喜んでいるようなおっさん」のことである。
全員ではないにしろ、社会的廃人の典型例であり、堅気の皆さんに〔ダメ人間〕の烙印を捺されても、仕方あるまい。
ここまで落(堕)ちてしまうと、泥沼に両足を突っ込んだみたいなものだ。容易には這い上がれないし、悪戦苦闘を繰り返している内に、だんだん這い上がる気力を喪失してしまう。何もかもが面倒になって、今が面白ければそれでいいや…という〔刹那主義者〕に変身してしまう。恐ろしいことだ、これは。
俺の暮らしも、刹那刹那は楽しい。確かに楽しいけれど、じゃあ、十年後二十年後はどうなってるんだ?という不安や危惧を覚えずにはいられない。
まあ、その年齢まで生きられる保障もないけどさ。仮に生きていたとしても、路上で生活してるかも知れないですね。惨めな上に危険な日常である。
夜中、寝ているところを愚連隊に襲撃されて、半殺しの目に遭わされるのだ。キューブリックの『時計じかけのオレンジ』の導入部みたいに。
暗澹たる未来予測から逃れよう、逃れようとするから、余計に刹那主義が加速するというわけ。悪循環である。こういう人間が増殖すると、国自体が傾く危険性がある。センセエ方もそれなりに頑張っておられるとは思うけど、この国は内面から崩れ出すのではあるまいか…。
いや、既に崩れ始めているような気もする。ニッポン沈没ならぬ、ニッポン崩壊である。陰惨過ぎて、小説や映画の材料にもなるまい。
その日の番組は『ゴジラ対へドラ』と『ゴジラVSビオランテ』の二本立てであった。前者に横溢している頽廃的と云うか、末世的(厭世的)なムードは、現代ニッポンに繋がるところがある。公開は1971年だが、よく、こんなのを作りましたね、という感じである。
有害(有毒)物質の塊り―毒を喰らい、毒を栄養とする魔獣へドラの不気味さ、気持ち悪さは、数々の名獣を擁する東宝モンスター群の中でも、独自の魅力を発揮している。ゴジラをも凌駕しかねない異様な個性と異様な外見。そして、異様な能力。さしもの怪獣王も難戦を強いられている。
『ゴジヘド』は―坂野義光監督のインタビューを信じるならば―予算9000万円、撮影期間1ヶ月ちょっと…という厳しい状況下で制作された。
当時の9000万円と現在の9000万円とを、同一に語ることはできないが、それでも「低予算ゴジラ」であることは間違いない。
都市の破壊や自衛隊との交戦など、お馴染みの場面や展開はほとんど出てこない。そういう「銭のかかるもの」は、台詞か何かで処理されている。おそらく、真っ先に削られたのだ。映画は「観せる」のが商売である。省略と割愛の連続の向こう側に、作り手たちの苦心苦境が浮かび上がる。
今回のゴジラは、人間の味方である。かつての悪玉が、新種の悪玉の登場によって、善玉を演じる以外に、役がなくなってしまったのだ。原水爆の恐怖に続く、公害と汚染の恐怖。人類は〔恐怖創造〕の才に長けている。