今村昌平の傑作である。傑作や名作という言葉は迂闊に使いたくないが『復讐するは我にあり』に関しては、迂闊になってもいいと考える。日本映画には力作や怪作が少なくないが、その中でも『復讐』は群を抜いた面白さを誇っている。世界相手に勝負ができる水準に達している。海外の映画祭に出品してしたら、結構いいところまで行っていたのではあるまいか。もしかしたら、最高賞を受賞していたかも知れない。

今村監督は2度のパルム・ドールを獲得するという空前の快挙をなし遂げているが、栄誉作2本―『楢山節考』『うなぎ』―よりも、映画としての完成度は『復讐』の方が数段勝っている。


まず脚本が見事である。佐木隆三の小説も傑作の部類だが、このままでは映画にならない。第一長過ぎる。的確な加工と修正が求められる。テレビの連続ドラマならば、原作に即した脚本化も可能だろうが、短期決戦の映画はそういうわけにはいかない。切るべき箇所は切り、削るべき箇所は削らなくてはならない。脚本家のテクニックには「切る」「削る」の二項目も含まれているのだ。勿論「くっつける」技術も要ります。

せっかくの高級魚も、板前の腕が鈍ければ、無惨な結果を招くことになる。素材の旨味を引き出すどころか「殺す」のが得意(?)なライターもいるから、油断はできない。映画制作は総合芸術の代表格みたいなものだが、脚本家が背負っている比重はかなり大きいのである。

立派な屋敷を建てようと思ったら、当然設計図は緻密になるだろうし、デタラメな設計図に基づけば、できあがる建物もやっぱりデタラメな形になるだろう。配役は脚本が完成してから考えればいい。順番を逆にすると、屋敷(映画)が瓦解し、参加者全員が不幸になる。


巨匠名匠と呼ばれる映画監督は、脚本も自ら書く人が多い。実際に執筆はしなくても、担当ライターと議論を重ねる筈である。必然的な成り行きである。これから〔オレの映画〕を撮ろうとしている者が、映画の要であるシナリオを他人任せにしていられるわけがないのだ。

クレジットは拒まれた(!)模様だが、今村監督は『復讐』の映画化に際して、独自の調査を行っており、その成果を脚本に反映させている。記録映画の手法を劇映画に応用するという意欲的試みであり、猛烈場面が連続する迫真映画の誕生に繋がった。


シナリオも贅沢だが、キャスティングも贅沢である。三國連太郎、緒形拳、ミヤコ蝶々、倍賞美津子、小川真由美、清川虹子、北村和夫、フランキー堺…と、最強クラスのメンバーが集められている。こうして見ると、日本芸能界の選手層も多彩な上に相当分厚いのがわかる。少なくとも、ある時期までは「分厚かった」と、断言できる。

父親=三國、息子=緒形というのも、凄い組み合わせである。映画版では、親子の対立関係が強調されていて、両者はまるで宿敵同士のように接している。刀で斬り合うような激しいやり取り。最後の対決は、監獄の面会室で展開する。三國VS緒形―互いに一歩も退かぬ演技合戦だ。父親が息子の顔に唾を吐きかける演出を、緒形は聞かされていなかったとか…。硬直した表情と怒りにふるえる声は、演技の壁を突き抜けた先に現れるもの。それは〔超演技〕とでも言うべき迫力を有していた。