『座頭市牢破り』は1967年に公開された映画である。シリーズ第16作であるのと同時に勝プロ第1回作品でもある。敵役を三國連太郎が、撮影を宮川一夫が、演出を山本薩夫が担当しており、初陣を華々しく飾ろうとするカツシンの意気込みが伝わってくる。伝わってくるが、現場の雰囲気は最悪…と言うか、ギクシャクしたものだったらしい。勝さんの抱える病―巨匠アレルギーは根が深いのである。

山本監督の興味は座頭市ではなくて、鈴木瑞穂扮する理想屋の啓蒙侍(モデルは大原幽学)に向いており、我らがヒーローは、ほとんどモンスター扱いにされている。全篇に毒気と悪意が満ちており、皆が座頭市の存在を否定しよう否定しようと懸命である。シリーズものとしては、異例の内容であり、題名も『牢破り』から『掟破り』あるいは『型破り』に変更した方が良さそうだ。

啓蒙侍の台詞のひとつひとつが、座頭市の心を残酷に抉る。この男、腕は立つが刀は持っていない。本人曰く「捨てた」そうである。自慢の弁舌が、刀の代わりである。その切れ味は仕込み杖と同等か、それを超える鋭利さを秘めている。たとえ真理であっても、抉られる方は堪ったものではないし、座頭市の内面に殺意が芽生えたとしても不思議ではない。とは言え、丸腰の相手を斬り伏せるわけにもゆかぬ。無敵の座頭市が、この先生だけは大の苦手としているところが興味深い。


山本ワールド特有のアクの強さに、さしものダークヒーローも困惑気味である。座頭市は瘴気渦巻く異次元領域に足を踏み入れてしまったのだ。虚像と実像の姿が重なる。勝さんも演(や)り辛かっただろうし、違和感を覚えた観客も少なくなかったのではあるまいか。裏を返せば、この歪み具合こそ『牢破り』の独自性と言えるのである。主演者と演出家の個性や意見が噛み合わなくても、秀作が誕生する可能性はゼロではないのだ。まったく映画は魔物である。何が起きるかわからない。

山本薩夫は『牢破り』公開の9年後に『天保水滸伝 大原幽学』を発表している。山本監督としても『牢破り』は不本意な仕事だったみたいである。蓄積していた不満を起爆させたのが『大原幽学』なのかも知れない。主演は平幹二朗だが、啓蒙侍=鈴木瑞穂も出演しているのが面白い。監督が『牢破り』を意識して、部隊を編制したとは思えないけど。


映画後半には二つの剣戟場面が用意されている。ひとつ目は雨中の大決戦。座頭市VS三國一家の激突である。連太郎親分の往生際の悪さが最高だ。親分は小細工を弄して、逆転を狙うが、そんなものが通用するわけもなく、頭部を胴体から薙ぎ落される。内容も暴走的だったが、殺陣の方も相当過激であった。宿敵の首が刎ねられるのは、シリーズ初かな?もしかして。ふたつ目は百姓衆に担ぎ出された座頭市が、斬り合いを半ば強制されるというもの。異例のエピソードは異例のアクションで幕を閉じるのだった。修羅場を去る座頭市の背中が「早く〔元の世界〕に戻りたい…」と、語っているように俺には感じられた。