『新・座頭市/糸ぐるま』は1979年5月28日に放送された作品である。第3シリーズの第6話。ゲストに緒形拳と倍賞美津子を迎えた豪華篇。久しぶりに観たけど、やっぱりいいよね。
勝新太郎は主演・脚本・監督の三役を同時にこなしている。多分、衣装・小道具・照明や撮影に至るまで、細かく指示を出していると推測される。もしかして、編集も自分でやってるのかな?だとすると、驚嘆に値する離れ業である。彼のような存在は、ニッポン芸能史の中でも稀ではあるまいか。世界的にも珍しいかも知れないし、彼の個性は〔日本向きではなかった…〕とさえ言える。でも、カツシンが日本に生まれてくれて本当に良かったと思う。おかげで、今もこうして楽しめるのだから。彼が遺してくれた映像財産を、このまま埋もれさせてはならない。
離れ業と言えば、勝組の現場は、脚本があってないようなものらしい。台本も展開も撮影当日に変更されたり修正されたりするから、それについていかなきゃならないキャスト&スタッフは大変である。
勝監督は即興性を重んじる。物語の整合性などは、二の次、三の次なのである。はっきり言ってしまうと、どうでもいいのだ。俺自身は整合性に結構こだわるタイプだが、カツシンが作り出す映像空間には、硬質化した概念を突き崩してくれる効果がある。こだわりは偏見や偏食にもつながる。時々ぶち壊した方が、視野も広がるし、濁った感覚が浄化されるような気がする。先駆者とは常に破壊者である。大映時代に培った映画経験を、こういう形で生かすとはねえ。いやいや、恐れ入りました。
緒形拳が無頼集団の首領を禍々しく演じている。何かにとり憑かれたかのように〔座頭市斬り〕に執念を燃やす緒形は、目指す宿敵との一騎打ちに及ぶが…。表情にも台詞にも動作にも、ホンモノめいた迫真性を感じる。緒形はもともと巧い役者だが、本人の演技力に、カツシンの演出力が加わるから、一層凄味が増すわけだ。画面から発せられる異様な迫力は、テレビの水準を軽く超えている。では、これは〔映画〕なのだろうか?いや、違う。これは、勝ワールド、あるいは〔勝宇宙〕とでも呼ぶべき独創の領域なのである。たまたま、テレビで放送されていたから〔テレビ時代劇〕の枠に分類されているだけの話である。
手元の資料を信じるならば、カツシンは「オレは巨匠(監督)とは合わないな…」と、悩んでいたそうである。黒澤明を筆頭に大物演出家との仕事は―100%ではないにしろ―ことごとく失敗しているのだ。
破綻や座礁の要因は様々だが〔自分が巨匠だったから〕というのも、そのひとつに数えていいだろう。クリント・イーストウッドにも似たような傾向を感じるが、勝新太郎を真に演出できるのは、この世にただ一人、勝新太郎だけなのである。
巨匠同士の反目は半ば必然。無理なのだ。カツシンの特性が、最も理想的に結実したものが『新・座頭市』ではないかと、俺は考えている。