『タワーリング・インフェルノ』は1975年6月に公開された作品である。20世紀フォックス&ワーナー・ブラザーズの共同作戦。空前の巨篇に相応しく、ポール・ニューマンとスティーヴ・マックイーンという二大戦艦が顔を揃えている。両雄、並び立たずの言葉もあるが、この映画では〔並び立って〕いる。それだけでも嬉しい。文字通りの夢の共演であり『デス・ハント』(1981年)や『ヒート』(1995年)みたいに、同じ場所にいるのかいないのかわからないようなややこしいものではない。
オープニング・クレジットは苦心の作。ニューマンとマックイーンを同一画面に表示して、トラブルの勃発を回避している。スター対スターの喧嘩は厄介である。一度火を吹くと、劇中で発生する大火災よりも鎮静化が難しかったりする。クレジットの順番なんてどうでもいいじゃないか、映画の中で一番目立っていればそれでいいじゃないか…とは、俺たち(観る側)の感覚であり、当事者(出る側)にとっては、きわめて重大な意味を持っているのである。
すべての俳優がそうだとは言わないが、役者とは基本的に自己顕示欲の塊りみたいなものである。特に大スターなどと呼ばれる人たちは〔塊りの中の塊り〕である。配役序列をめぐって、降りるとか、降りないとかの大騒ぎに発展したりするのである。これに関する逸話や伝説はけっして少なくない。
いささか子供じみているが、それぐらい自己主張が激しくないと、生き残れない世界であることも確かである。そういう人たちの納得を得るためには、腫れ物に触れるがごとき繊細さが要求されるのである。
俺などは病的な〔クレジット好き〕だから、映画の内容よりも、そっちの方が気になったりする。正常な観方とはとても言えないが、ツマラナイ映画を少しでも面白くする方策のひとつではある。
この映画に登場する〔グラス・タワー〕は、現代のバベルの塔とでも呼ぶべき威容を誇っている。金環蝕ではないけれど、外観は大層立派だが、中身は手抜き工事に埋め尽くされている。既に災いの火種は仕掛けられていたのだ。惨劇は起こるべくして起こったのである。
グラス・タワーの設計を手がけたのは、ポール・ニューマン技師だが、図案と実際とでは大きな隔たりがあった。さしものニューマンも、自分で書いて、自分で建てるわけにはいかないのである。図面を引いたら、あとは、施工主と大工さんに任せるしかない。
予算は充分に組んではあるものの、その内の何分の一かは、誰かの懐に消えてしまっている。建築業者も与えられたお金の中でビルを建てなければならない。その際、最も肝心であるはずの安全性が真先に犠牲となり、見てくれや体裁を整えることしか頭にない〔不毛〕と言うのも愚かしい突貫作業が始まるのである。
これが虚構であれば構わない。同じようなことが、どこかの国の原発建設でも行われていたとしたら…考えただけでもゾッとする。
現代のバベル崩壊に〔神の怒り〕は必要ない。至るところに設置された〔自爆スイッチ〕が絶妙のタイミングで作動して、滞在者を火だるまに変える。炎は化物である。一たび暴れ出したら、容易なことでは収まらない。この怪物に敢然と立ち向かうのが、火消しの大将―我らが快男児スティーヴ・マックイーンである。発言力も大きいが、行動力も凄い。まるで、宿敵と斬り結ぶ武芸者のようだ。なるべき男が、なるべき地位に就くことは、部下にとっても、被災者にとっても、心強く、頼もしい。
闇に浮かび上がる地獄の塔は、人類の自滅を予感させる不吉なものではあるが、反面、壮麗な頽廃美を感じさせる夢幻的光景でもあった。