『バベットの晩餐会』は1987年公開のデンマーク映画である。斬り合いもなければ、撃ち合いもない。濡れ場などあろう筈もない。俺の最も苦手とする〔アート系〕に属する作品と言える。バイオレンス&エロスも大変結構だが、たまには、こういう静謐な映画も良いものである。宗教的背景がわかっていないので、観ていて戸惑う場面も幾つかあったが、映画は異文化(異世界)との接触でもあるのだから〔戸惑って当然〕と開き直ってしまおう。最初から全てを理解しようとする方が無理だし、わからないものはわからないと、率直に認める謙虚さを持ちたい。
映画序盤は素朴な描写の積み重ねだが、亡命家政婦バベット(ステファーヌ・オードラン)が思わぬ大金を手に入れた辺りから、映画が本格的に動き始める。前半の退屈さ(失礼)を吹き飛ばすかのような、後半の厨房場面の素晴らしさはどうだ。
雇い主の老姉妹にも秘密にしていたが、バベットの正体は凄腕の仕掛人…ではなくて、パリ在住の食道楽どもを唸らせていた第一級の料理人だったのである。
晩餐の支度に全財産を投じるバベットの気前の良さに吃驚させられる。いや、財産だけではない。彼女は人生そのものを、今回の調理に懸けているのだ。
その瞬間、料理は料理を超えて、誇りと魂がこめられた芸術品へと劇的な進化を遂げるのである。一世一代の大仕事にたずさわるバベットには、合戦に臨む武者にも似た気迫が漂っている。
料理人にとって、厨房はまさに戦場であろう。気鋭の女流シェフとして、技量と才覚を振るっていたパリ時代の興奮と緊張が―14年の時を経て―バベットの内面によみがえる。視覚的な派手さはないが、実に感動的な場面に仕上がっている。
池波正太郎はこの映画を試写室で観ている。先生はオードランの演技を絶賛。同時にバベットというキャラクターの面白さも褒め上げている。男優女優を問わず、俳優ならば絶対に演(や)りたくなる〔いい役〕だそうである。なるほど。オードランの演技にも熱が帯びるわけである。俳優としての最大の幸福とは〔いい役〕に恵まれる事であろう。生涯恵まれずに終わってしまう役者さんも少なくはないのだから。